ケアリイ

蛎殻町と川蒸気船

上の写真は通運丸という、明治時代から昭和初期にかけて活躍した蒸気船の模型です(物流博物館で撮影)。川蒸気とか川蒸気船と呼ばれていたようです。

 

東京湾汽船(現:東海汽船)が、その名の通り、主として東京湾内、そして伊豆大島などへの海運を支えていたのに対して、通運丸を運航していた内国通運(現:日本通運)は利根川を中心とした、東京近郊の内陸水運を支えていました。

 

また、東京湾汽船が安房共立汽船など、地元資本の船会社とデッドヒートを繰り返したのと同様に、内国通運も、銚子汽船や木下(きおろし)の大資本家吉岡家などと、競合したり同盟したりという波乱の歴史を持っています。

 

※通運丸は第1号から連番で第56号まで存在し、外輪船タイプのものやスクリュータイプのものが混在していましたが、ここでは区別なく「通運丸」と書かせていただきます。

川蒸気船の航路

とにかく驚かされるのは川蒸気船の航路の広さと、膨大な数の寄航場です。上の地図画像はpdfファイルをリンクしてありますので、是非拡大してご覧ください。(後述する『川の上の近代』の附録地図です)

 

「昔、利根川と江戸川を結ぶ航路があった」というのは何となく知ってはいましたが、そんな単一路線のようなものではなく、東は北浦・霞ヶ浦の沿岸を網羅し、西は鬼怒川の一部や渡良瀬川の流域までもカバーしていたようです。そして日本橋区蛎殻町にも主要なターミナルがありました。

 

通運丸の全長は、個体差はあるものの20m強のものが多かったようです。船幅は3m強。定員というのか、客船としては50人前後の客を運んでいたという記録もあります。その大きさの蒸気船が東京の近郊河川を縦横無尽に行き来していたかと思うとちょっと感動しますよね。。

蛎殻町ターミナル

蛎殻町ターミナル 蛎殻町と川蒸気船

内国通運の東京側の最初のターミナル(原発場と呼ばれたようです)は小名木川沿いの扇橋でしたが、その後、同じく小名木川の高橋と、隅田川沿いの両国、箱崎川沿いの蛎殻町が原発場となりました。

現在の蛎殻町はまったく川に面していませんが、当時(というか首都高とTCATができる1971年まで)は「箱崎川」という立派な川(運河)が存在し、その川沿いに蛎殻町原発場があったようです。

ちなみに、箱崎川には「蛎殻河岸」という河岸が江戸時代から存在していたようですが(場所は現在の「ミュゼ浜口陽三ヤマサコレクション」のあたり)、原発場の場所はそこよりも少しだけ上流、土州橋(当時)の北側で、現在のロイヤルパークホテルの東壁のあたりだったようです。

 

現在、そのあたりに立って旧箱崎川の方向を向くと、蛎殻町ターミナルではなくて東京シティ・エアターミナル(TCAT)が見えるというのも面白いですよね。

箱崎川自体は消滅してしまいましたが、いまでも「箱崎川第一公園」「箱崎川第二公園」という公園の名称にその名前を留めていますね。(上記の写真及び左の地図の出典も『川の上の近代』より)

通運丸の模型

通運丸の模型 蛎殻町と川蒸気船

ここまでの記述でも何度も参照させていただきましたが、『図説:川の上の近代 -通運丸と関東の川蒸気船交通史-』という、通運丸に関してこれ以上の資料は無いだろうと思われる本があります。貴重な画像や統計資料などがA4サイズ・約200ページにわたってビッシリと満載された素晴らしい本です。

平成19年の展示会の解説目録として制作された本なので書店で販売されていないのが残念ですが、私はたまたま物流博物館で購入できました。もしかしたら当時の展示会を共同開催していた江東区中川船番所資料館や、(木下の)吉岡まちかど博物館にもまだ在庫がある可能性はありますが未確認です。

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とにかく、この本には「外輪蒸気船の模型」という面白いページがあり、そこに物流博物館はじめ多くの博物館に所蔵されている「通運丸模型」の写真が掲載されています。

 

解説によれば、そもそも本当に第1号通運丸を建造した石川島平野造船所の後進、石川島重工業(当時)の技術者が昭和37年に第1号通運丸の推定復元図を作成したそうです。その図面を元に、まずは内国通運の後進、日本通運が模型(この記事冒頭の写真です)を製作。その後同じ図面を元に続々と各地の博物館も製作したということです。

右側上の通運丸模型は千葉県立関宿城博物館の展示品を撮影したものですが、たしかに瓜2つですね。

図面を元に通運丸の本格的な模型を作るのは私のような素人にとってはハードルが高すぎますが、そんな私(たち)のために、物流博物館にはペーパークラフトが用意されていました(^^)。シールを張り替えるだけで、通運丸にも銚港丸(吉岡家が建造)にもなるという優れものです。(右側下)

しかし。作り方を読めば読むほど製作過程は困難を極める感じで、未だ手つかずのままです。。。(笑)

井上安治の作品にも

井上安治の作品にも 蛎殻町と川蒸気船

以前ご紹介させていただいた井上安治の作品にも、蛎殻町発着場付近を描いたものがありました。

『蛎殻町川岸の図』(1881)というものです。(上記出典はpublic domain)

第1号通運丸が運航開始したのが1877年(明治10年)のことなので、それから4年しか経っていません。右のほうに見えている通運丸もおそらく初期のもので、船の向きからすると、蛎殻町に到着しようとしているか、あるいは両国原発場に向かっているのかな、という感じです。

ちょっと不思議なのが人力車とそれを引いている人物の影の向き。絵の感じからすると夕暮れで、ネットで検索しても「夕暮れの風景」と解説されているものがいくつもヒットします。でもあの影が本物だとしたら、東のほう(川のほう)から光が差していることになりますよね・・?

あと、川幅がとても広く見えるのは、おそらく箱崎川ではなく、隅田川だからだと思われます。箱崎の北側には中洲地域があるはずですが、中洲の再埋立てが行われたのは1886年のこと。この絵が描かれた1881年には、箱崎の北側は川面か、葦の生い茂る湿地だったようです。蛎殻町ターミナルよりも少し北、旧:菖蒲河岸のあたりからはこういう風景が見えていたのかもしれませんね。