すっとこどっこい

名前に町名がつく橋 京橋地区編

よく通る道で普段あまり橋という意識も無く歩いている入船橋。橋の下の多目的広場(わんわん広場やキャッチボール場)は整備中なのか工事が行われているなと暫く見ていた。何気なく思ったのがこの橋の位置は明石町であり築地でもあり新富入船の境でもあると。でも橋の名前は入船橋だ。少し調べてみようと思いました。

入船は、明治維新後に入舟町の町名で一丁目から九丁目までありました。六丁目から九丁目は隣合せの新栄町と共に外国人居留地に指定され一旦町名は廃止されました。当時は現在の位置に新大橋通りの道は無く築地川に架かっている橋は軽子橋だけでした。関東大震災後に再整備されて、築地川は残りますが入舟川は埋立てられ、新大橋通りが作られて入船橋が架けられました。図① 

町も再編整備され入舟町は一丁目から三丁目になり、新栄町は廃止、旧外国人居留地明石町になりました。

築地方面から橋を渡って、入船に入るために入船橋(当時は入舟橋)になりました。

 

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築地川の上で、首都高速の新富町出口へ向かう道の上に架かった築地橋です。図②

築地橋を通る道は現在平成通りと名付けられています。新富方面から築地への入り口になります。

通常は橋の両脇に橋名板があります。片方が漢字表記でもう一方は平仮名表記のものもあります。

Hanesさんのブログで詳しく書かれています。

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=3056

 

平仮名表記の方は ”つきぢはし” です。つきじではありません。”日本料理 つきぢ田村”のように ぢ を使うところもありますが、現在はほぼつきじで統一されています。 ”ぢ” の文字に下町の粋を感じます。

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新富橋です。楓川に架かっていました。図③

写真の左下に銀座一丁目と書かれた街区表示板が写っています。新富側から橋を渡たったら住所は銀座です。写真の奥に見えるのは大野屋総本店さんです。

銀座側(当時は木挽町)からの新富への入り口です。橋の下は首都高速です。写真の右側は公園になっています。

 

 

 名前に町名がつく橋 京橋地区編

あかつき公園内に明石町の町名の由来を記した碑があり、その裏側に南明橋と共に明石橋の橋名板が残されてます。

築地川南支川の通称明石堀と呼ばれた川が隅田川に注ぐ位置に架けられた橋です。現存はしていません。明石橋は通称 ”寒橋(さむさばし)” と呼ばれていました。図④

幕末にこの位置に運上所(東京税関)が設置されました。

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次はです。中央区には1679年に霊岸島箱崎地区の間に架けられた有名な湊橋があります。当時の江戸湊の出入り口で、この橋名が付いています。地名のとは関係はありません。地名のに関係する橋はないかと探したら築地川から明石堀にて分流して鉄砲洲神社側で隅田川に流れ出る鉄砲洲川新湊橋がありました。図⑤

湊橋がすでに存在していたので、新の文字をつけたのでしょうね。橋があったと思われるのはちょっとからはズレて現明石町になりますが。

奥に塩瀬総本家の幟が見えます。

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八丁堀はその名の通りその位置にあった堀から付けられた地名です。現在の中央区立男女平等センターブーケ21の前の道の位置にあった橋が八丁堀橋でした。入船から八丁堀への入り口です。図⑥

すっとこどっこいにはこの橋に強烈な思い出があります。サイドカー付き自転車に知り合いを載せて走り、八丁堀橋の下りでスピードが出過ぎ左折し損ねて知り合いを放り出しました。写真の奥の横断歩道を左折するつもりでした。怪我は無くて無事だったのですが。

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亀島橋です。橋は八重洲通りから亀島川を超える位置で、八丁堀から新川に行く所です。

亀島町は江戸中期から昭和8年まであった町名です。場所は現在の日本橋茅場町になります。町名との連動では後に架けられた新亀島橋のほうが関係性があると思います。京橋地区では無いのですが、橋が残っているので写真に入れました。図‐⑦

ちなみに写真は堀部安兵衛武庸之碑の前から撮りました。この辺りは旧水谷町です。安兵衛が水谷町に住んでいたので碑を建てたと説明があります。安兵衛が住んでいた当時の水谷町は現銀座一丁目付近でした。今は水谷橋公園がある辺りです。大火事の後、町毎八丁堀に移転したそうです。

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上の写真は住所は八重洲になりますが。現在廃止になっている首都高速KK線の高架下に紺屋橋がありました。現銀座一丁目の北西辺りが南紺屋町でした。高知県のアンテナショップの近辺です。鏑木清方が幼少のころ住んでいました。染物師が多くいたようですが、神田の紺屋町が有名なので南をつけたのかと思います。図-⑧

下の写真は銀座六丁目にある公衆便所にある名称表示です。銀座三原通りは以前三十間堀川が流れていた場所で、その川に架かっていた橋の一つが木挽橋です。図-⑨ 山本周五郎が勤めていた質屋が近くにありました。銀座の東側が木挽町でした。

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上段の左側の写真は晴海通りに面した築地の交番です。築地警察署小田原町交番となっています。お巡りさんに尋ねたら「正式な交番名です。築地交番に名称が変わる云々の話は聞いていない」そうです。現在の築地六丁目・七丁目小田原町でした。すっとこどっこいの小学校時代、築地の同級生の住所は皆小田原町でした。上記右側の写真は生鮮市場築地魚河岸海幸橋棟側から撮った小田原橋棟の壁看板です。両棟の間の道には、生鮮市場築地魚河岸が造られるまで橋の形は残っていました。勿論水はありませんし、橋名板の記憶もありませんが。小田原橋晴海通りと平行するように架けられていました。図-⑩

下段の写真は新栄橋があった辺りです。明石堀を横切る形で架けられていたようです。入舟町新栄町は縦に並ぶ形で区画され南八丁堀まで細長く続きます。その新栄町側の入り口になります。図-⑪

ちなみにすっとこどっこいの家は入船ですが、子供のころ家業の店に張ってあった昔の住居表示が京橋區新栄町となっていて、祖父に新栄町だったと教えてもらいました。

 名前に町名がつく橋 京橋地区編

今回取り上げた橋を地図に配置しました。

新川越前堀は地図からはみ出たので割愛しました。

地図で大きな部分を占める銀座界隈ですが、元々水で囲まれた地域です。中央区役所側の地下を走る旧築地川の首都高速の上には三吉橋から亀井橋祝橋萬年橋采女橋千代橋が現存します。旧三十間川には紀伊國橋豊玉橋朝日橋三原橋木挽橋出雲橋がありました。旧京橋川にも白魚橋水谷橋京橋紺屋比丘尼橋有楽橋があり、外堀川は数寄屋橋です。他にも千代田区や港区との境に土橋や新橋などまだまだ橋がありました。

こんなに水に囲まれて橋が沢山あるのに地名の銀座の名の ”銀座橋” はありません。

個人的な意見では、場所から言って萬年橋が適当だったのかなと思いますが。この首都高速上の公園は皆、築地川〇〇公園と橋の名が付いているのに、萬年橋の所だけは築地川銀座公園となっているのです。築地川の公園をテーマにブログを書いたときは築地川萬年橋公園でいいのにって書きましたが。

銀座の名前は昔から存在が大きいのですね。