【ドラマブログPart3】観光検定テーマ「幕末と中央区第1章」の巻

9/1に第19回観光検定のテーマが発表されました。

区内の掲示板にも案内のポスターが掲示されてます。(TOP画像は掲示板を撮影)

今年のテーマは「幕末と中央区」!

来年度の大河ドラマ「逆賊の幕臣」から決めたのでしょうか。
わたくしも受験予定ですが、高校で歴史の勉強をやってないから、割と常識的なことを知らないんですよ。
大河ドラマの主人公「小栗忠順」のことを、検定のテーマをきっかけに調べ、初めて知りました。

かつて存在した「築地ホテル」を発案、主導した人なんですね。

へー、ってことで、このブログをチェックされている方の中にも、観光検定を受ける方がいると思いますので、中央区に残された史跡に焦点を当て、幕末(1853~1868年頃)の事を全5章で小説風に紹介しようかと。
合格を目指す皆様、一緒に頑張りますかね。
※小説部分の執筆に一部生成AIを使用しております。

小説『黒船襲来と江戸湾の揺らぎ —〜海防の前線となった水辺 〜』

嘉永六年(1853)六月、初夏の風が吹き抜ける江戸の街に、突如として稲妻のような衝撃が走った。

「黒船が来たぞ!」
「浦賀沖に黒い巨大な城のような船が四隻も現れた!」

飛脚や町人たちが走る足音が、日本橋の木橋をどたばたと激しく鳴らしていた。

棒手振りの威勢の良い声は消え失せ、人々は青ざめた顔で顔を見合わせ、荷物を抱えて右往左往していた。
泰平の眠りを貪っていた江戸幕府の幹部たちも、未曾有の国難を前に狼狽するばかりであった。

この危機に対し、幕府は江戸湾の防衛策を即座に講じる必要に迫られた。
そこで建造が決定したのが、海上砲台「品川台場(お台場)」である。
その突貫工事の最前線基地となったのが、隅田川の河口に位置する佃島や石川島(現在の佃・月島エリア)であった。

佃島の老漁師・権造は、夜明け前の冷たい海風の中で網の手入れをしていた。
しかし、耳に届くのは静かな波音ではなく、沖合から響く激しい掛け声と船の櫓音であった。
巨大なもっこに入った土砂や、伊豆から運ばれてきた巨石を積んだ船が、隅田川河口から品川沖へと絶え間なく行き交っている。

「権ぞうの親方!今日も一番船で台場へ土砂を運ぶぞ!船を出してくれ!」
若い漁師が息を弾ませて駆け込んできた。権造は煙管の紫煙を深く吹き出し、遠く煙る沖合を見つめた。
「……おいおい、俺たちの網場(漁場)がすっかり台無しじゃねえか。御用だ御用だと、海に土を投げ込んで、本当にあんなもので異人の大砲を防げるのかね」

佃島は、徳川家康の時代に摂津国(現在の大阪府)から移住してきた漁師たちが開拓した島である。
江戸城へ新鮮な魚を献上する特権を持つ代わりに、江戸湾の防衛や湾内の見張り役を任された、誇り高き「海の男たち」の街であった。

しかし、黒船の影は、その平穏な水辺の暮らしを根底から変えてしまった。

佃島の隣に位置する石川島(現在の佃2丁目付近)では、水戸藩主・徳川斉昭の唱導によって石川島造船所の建設が急速に進められていた。職人たちの槌の音がカンカンと響き渡り、ボイラーから吐き出される黒煙が空を舞う。


 【ドラマブログPart3】観光検定テーマ「幕末と中央区第1章」の巻

※生成AIによるイメージ図(時代考証してません)

そこでは、日本初の国産木造洋式軍艦「千代田形」などの建造が進められ、佃煮の香りが漂っていた水辺は、一夜にして幕末の防衛と造船の最前線へと姿を変えたのである。権造ら漁師たちも、自らの操船技術を買われ、荒波をついて台場への石材運搬を余儀なくされた。

「異人にこの海を好き勝手されてたまるかってんだ」

江戸の街と自分たちの海を守るため、佃の漁師たちは汗を流した。伝統的な水運文化と、西洋の近代軍事技術が交錯する隅田川の河口。

幕末の中央区(現在の中央区域)の水辺は、迫り来る外圧に対する「国家防衛の第一線」として、重厚な歴史の第一歩を踏み出したのであった。

つづく

石川島〜佃島紀行

石川島〜佃島紀行 【ドラマブログPart3】観光検定テーマ「幕末と中央区第1章」の巻

『黒船襲来と江戸湾の揺らぎ —〜海防の前線となった水辺 〜』のドラマはこれまで。

大河ドラマ風に、現代の景色を紹介します。
まずは小説内で「隅田川の河口に位置する佃島や石川島」と表現しましたが、明治初期の地図を見つけたので文面と共に転載します。

"中央の石川島・佃島の最上部に「石川嶋造舩場」 を見て取れる。その下の中央部に「石川嶋監獄署」(茶色に塗られた建物群)が立地する。その左下には住吉神社が建つ 「佃嶋」の密集家屋が細かく描かれている。佃嶋は東西2つの島からなり、一本の橋でつながれている様子も見て取れる。"

転載元
https://www.oceandictionary.jp/scapes1/scape_by_randam/randam17/select1729.html

 

石川島には、長谷川平蔵が松平定信に提案し、寛政2年(1790年)、無宿者に仕事を教えて更生を促す「人足寄場(にんそくよせば)」が設置され、清水純畸(しみずじゅんき)が人足寄場奉行を務めてました。

明治になり人足寄場から「石川嶋監獄署」に変わりました。

現代の石川島と佃島

現代の石川島と佃島 【ドラマブログPart3】観光検定テーマ「幕末と中央区第1章」の巻

現代のGoogleマップに、当時の石川島と佃島の場所を手書きしてみました。

佃島だけは、江戸時代の町割り、及び周囲に佃掘りがそのまま残ってます。
石川島だったところは、のちに形成された、新佃、月島とともに一体化しております。

住所も「佃」でまとめられてますが、島の端にぐるりと巡っている区立石川島公園や石川島記念病院に「石川島」の名前が残っております。

石川島造船所

石川島造船所 【ドラマブログPart3】観光検定テーマ「幕末と中央区第1章」の巻

嘉永6年(1853)、水戸藩主・徳川斉昭によって石川島(現在の中央区佃2丁目付近)に設立された西洋式造船所。後のIHI(石川島播磨重工業)のルーツであり、日本の近代重工業・造船業が始まった場所。現在は跡形もありません。

近くにはIHIが運営する石川島資料館があります
中央区まちかど展示館としても登録されてます。

開館日:    毎週水曜日・土曜日(年末年始は除く)
開館時間:    午前10時~12時 午後1時~午後5時 (入館は午後4時30分)
入場料:    無料
所在地:    東京都中央区佃1-11-8 ピアウエストスクエア1階

 【ドラマブログPart3】観光検定テーマ「幕末と中央区第1章」の巻

石川島公園内に「日本初の民営洋式造船所発祥の地」の案内板があります。
写真は昨年わくわくツアーに参加した際に撮影したもの。

わくわくツアーに参加してみた
「月の名所・月島と江戸から続く佃・石川島歴史」

千代田形

千代田形 【ドラマブログPart3】観光検定テーマ「幕末と中央区第1章」の巻

上記の案内板に印刷されている軍艦が「千代田形」
石川島造船所で慶応2年(1866年)5月に竣工。日本初の国産蒸気軍艦。
幕府海軍の主力艦として戊辰戦争でも実戦投入されました。ボイラー製造担当は佐賀藩で、三重津浜の造船所で田中久重にて製造されました。
千代田は江戸城の別称で、形がつくのは同型艦が予定されていたからだが、2番艦以降が建造されることはなかったとのこと。

田中 久重(たなか ひさしげ):江戸時代後期から明治にかけての発明家。
「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の基礎となる工場の創業者。

佃島

佃島 【ドラマブログPart3】観光検定テーマ「幕末と中央区第1章」の巻

慶長年間に摂津国佃村の漁師たちが移住して開拓した島。
江戸城への鮮魚献上の特権を得る一方で、江戸湾の警備や見張り役を担ってました。

幕末には台場建設の協力や石川島造船所の隣接地域として、急速な近代化の波に直面したことでしょう

開拓した際の詳細をWikipediaより転載
「家康が摂津国の神崎川を渡ろうとした際、佃の漁師(庄屋)だった森孫右衛門が舟を貸してくれたおかげで三河国の岡崎城に帰還でき、徳川家とこの漁民の間に強い絆が出来たという。
(中略)
江戸の佃島は慶長7年(1602年)、摂津国佃村と大和田村からの34人の入植を契機とし、正保元年(1644年)に隅田川河口・鉄砲洲の干潟100間四方の埋め立てによって出来た漁村である。佃村漁民の関東での漁労活動は、当時多く見られた近世の畿内漁民の関東進出の一角ともされる」

参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA)



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