浮世絵の音風景
歌川広重『東海道五十三次』の風景を見ると音の感興がこみあげてくることがあります。各地には固有の風景とともに、それぞれ特有の響きが広がっています。文化庁芸術祭協賛『浮世絵の音風景』邦楽公演が10月4日/5日に国立劇場で開催されました。浮世絵を聴いて、方角を見て江戸時代の旅情をよみがえりたいと10月4日夜の部に参加しました。
1. なぜ東海道は五十三次なのでしょうか?
当日の『音』の話の前に「五十三次」の話をしましょう。
江戸と京都を結ぶメインルート「126里余の東海道」の宿駅の大半は江戸開府当初からありましたたが、寛永年間(1624~43年)に53の宿駅が整ったといわれます。東海道五十三次の「次」は、「人馬を継ぐ」を意味する「次ぐ」です。
江戸時代、公的な荷物は宿場ごとに止められ、中身を改められた上で先の宿場まで継いでいく決まりになっていました。なぜ53の宿場を設置したのでしょうか?
華厳経における「入法界品」の善財童子が文殊菩薩の命により、53人の師を経て普賢菩薩のところで悟りを開いたという説があります。インドの仏陀にもこれと似た話があり、日本に伝来したものと考えられます。徳川家康は江戸(穢土)から京(普賢菩薩の住まう所)へ"次”を53に定めたということです。この由来は後世のこじつけと思われますが、当時の信心深さを考えると十分ありえることかもしれません。
東海道の起点は「日本橋」
東海道の起点は日本橋。広重の日本橋の浮世絵では、手前の左右の大木戸が開かれ、朝焼けを背景に大名行列が日本橋を渡り始めようとしています。先頭持ちを先頭に、毛槍と続いて陣笠の従士たちが、正面から湧いてくるように描かれています。日本橋の手前には魚河岸から帰る魚屋や野菜売り、さらには犬の姿も見えます。早朝の日本橋の活気が伝わってきます。
長唄「吾妻八景」
東海道の起点である日本橋は、活気に満ち様々な音が響き渡り賑わいに溢れています。ここで歌われる長唄「吾妻八景は、江戸の名所風物を綴った作品で、優れた音楽表現により往時の風景を描き出します。日本橋ばかりでなく江戸各地の名所が巧みに描かれています。長唄の中でも特に風景の写実的な表現に優れ、佃・砧・楽の合方など三味線特有の旋律が冴える江戸末期を代表する作品の一つです。文政 12 年(1829年)、四世杵屋六三郎により作曲。「秋の色種 (いろくさ) 」と並んで、お座敷長唄の双璧と言われています。
江戸の名所、風物を季節の変化も織り交ぜてうたいあげた、お座敷長唄の名曲です。お座敷長唄とは、もともと歌舞伎の伴奏、つまり舞踊曲として生まれた長唄ですが、これは舞踊という制約から離れて単独の芸術作品として作曲されました。
新春の日本橋から富士山を臨むところから始まり、江戸時代からの桜の名所御殿山(品川)、船に乗って隅田川から浅草へ(宮戸川は隅田川の浅草周辺の旧称)→新吉原→忍ぶが岡(浅草橋)、衣紋坂→上野で終わります。
東都江戸橋・日本橋(広重)
長唄の「吾妻八景」の出だしは、『実に豊かなる日の本の橋の袂の初霞 江戸紫の曙染めや 水上白き雪の富士 雲の袖なる花の波』。季節が春から冬に、時刻も夜明けから夜更けへと移り変わっていきます。
目に絵が浮かびますね。
添付したパンフレットのように、各宿場に関わるイベントをフィーチャーした長唄・琵琶・常磐津節・謡曲・義太夫などを経て浮世絵を音として表現し本日は嶋田・大井川駿岸まで到達しました。
これで本日はお開きです。
私は参加しませんが、明日10月5日昼の部は、白須賀→御油→桑名→土山→京まで。残念です。