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【遠足シリーズ第24弾】堀部安兵衛の足跡をたどって


こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
仕事が一段落した先日、「今年は暖冬で雪がない」と言われる中、弾丸で新潟へ行ってきました。
雪がほとんどない分、予定以上に色々な場所を見て回ることができ、日本100名城である新発田城(しばたじょう)を訪問した際には、しばらく忘れていた中央区との関係を呼び覚ます人物に出会いました。

それが、赤穂義士の1人として知られる堀部安兵衛です。
中央区観光検定のテキストにも記載があるように、彼は新発田藩出身なのです!
今回は彼の新潟時代の足跡を辿り、どのような人物であったのかをもう少し詳しく見てみたいと思います♪

聞いてびっくり!彼の出自とは

1670年、中山弥次右衛門の長男として誕生した安兵衛。
彼の生誕地は、新発田城から徒歩5分以内と城下町の中でもお城に近い場所に位置しています。
今や交差点に石碑が残るのみではありますが、なかなか良い出自なのではないかという予想がつきます。

 【遠足シリーズ第24弾】堀部安兵衛の足跡をたどって


気になって調べてみたところ、安兵衛を育てた母方の祖母 糸姫は初代藩主・溝口秀勝侯の六女で、藩主のお姫様をお嫁にもらう中山家は新発田藩の中でも相当の家柄だったようです!
(参考ウェブサイト:しばた観光ガイド「堀部安兵衛 生誕の地」
父が浪人となり、亡くなったのをきっかけに上京したという安兵衛の苦労話しか知らなかった私には驚きの発見でした!

江戸への旅立ち

前述の通り不幸があり、安兵衛は中山家再興のために江戸へ旅経つことに。
中山家の菩提寺である長徳寺には、自ら手植えしたと言われている「堀部安兵衛手植えの松」があると聞きつけ、見に行ってまいりました。

 【遠足シリーズ第24弾】堀部安兵衛の足跡をたどって


その松というのがこちら!高さもあり、なかなか立派。
そばにある石碑「義士 堀部安兵衛碑」の裏には、出自、上京の経緯、赤穂義士としての活躍、建碑の経緯等が刻まれていました。

 【遠足シリーズ第24弾】堀部安兵衛の足跡をたどって


では、若くして中山家再興のために江戸に旅立った後はどのような人生を送ったのでしょうか。
舞台を江戸・東京に移して簡単におさらいしてみたいと思います。

江戸での激動

上京後の安兵衛は、江戸随一と言われた堀内道場で剣術を学び、高田馬場での決闘でその名を江戸にとどろかせることに。
それ以降、彼の人生は大きく変化!
赤穂藩士・堀部弥兵衛から養子に迎えたいとの申し出を最終的には受け入れ、後に赤穂藩主・浅野家に出仕。

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(長徳寺に残る「義士堂」)


そして1701年3月14日、浅野内匠頭中央区明石町浅野内匠頭邸跡あり)が江戸城「松の大廊下」で吉良上野介に斬りかかるも失敗し、切腹を命じられこの世を去りました。
赤穂義士たちは翌年年末に吉良上野介の屋敷に討ち入り、浅野内匠頭の仇討ちに成功!

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(義士堂の看板・内部の木造)


赤穂義士たちは泉岳寺に引き上げ、浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるも、後に幕府より切腹を命じられ、安兵衛は享年34歳とその短い人生の幕を下ろしました。
遺体は浅野内匠頭の墓所がある泉岳寺に葬られましたが、故郷新発田の長徳寺にも彼を供養する碑があります。

 【遠足シリーズ第24弾】堀部安兵衛の足跡をたどって


この碑は、2017年11月末に安兵衛の功績を伝える市民団体「武庸会」の方々により、泉岳寺から持ち帰った墓の土が墓碑に「納骨」されたものです。
毎年12月14日には、ここ長徳寺を会場に堀部安兵衛を偲び義士祭が行われているのだとか。
よく見ると、供養碑のそばには、越後 城下町しばたの酒「安兵衛」と「無事帰る」と言わんばかりのカエルの置物が置かれていることに気づきます。

 【遠足シリーズ第24弾】堀部安兵衛の足跡をたどって


このように地元新発田市でも彼の功績は色あせることなく語り継がれているばかりか、赤穂義士に関係のある都市間交流も定期的に行われていることが分かりました。

中央区内の堀部安兵衛関連史跡

では、ここで亀島橋西詰にある堀部安兵衛武庸之碑を改めて訪れてみたいと思います。
この碑は、彼が京橋水谷町(現在の中央区八丁堀)に住んでいたことを記念して設置されました。

 【遠足シリーズ第24弾】堀部安兵衛の足跡をたどって


これまでこの碑を見てもあまり安兵衛の人生がパッと思い浮かびませんでしたが、今回は彼の人生を振り返りながらしみじみとこの碑を見ることができました。
道路を挟んで反対側には銀座の柳四世が植えられているので、お散歩時には合わせてご覧ください♪

今回の遠足を通して、江戸時代より現在の中央区には日本全国から歴史に名を残すような人物が集っていたということを改めて知ることができました。
旅先でこのような関係性が見つけられるのも、大名屋敷が建ち並び、武士や町人のまちとして栄え、後に外国人居留地を有した中央区ならではなのではないでしょうか。
今後も中央区とその他の都市の関係性を見つけていきたいです^^

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