人形町駅から行ける、静かな佇まいの神社 NO.27
~ 明星稲荷神社 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をストレートに取材します、rosemary sea です。
「人形町駅から行ける、静かな佇まいの神社」シリーズ、第27回の今回は、明星稲荷神社(めいせいいなりじんじゃ)をご紹介します。
それでは・・・
明星稲荷神社は、当初江戸城内に祀られていましたが、徳川家康公入府の際、地頭職にありました小網町の浜口家に下げ渡され、浜口家の屋敷神として祀られるようになったそうです。
しかし、その後、関東大震災で被災、復興されるも今度は戦災により焼失、昭和43年に改めて再建されました。
現在の社殿は平成25年に新築されましたようです。
参道は長めです。
こちらは参道の鳥居に掲げられているもの。
朱の鳥居、社号標、玉垣そして社殿。
お手入れがされており綺麗です。
今回も江戸古典落語をご披露します。
第19回になりました。
お送りしますのは、明星稲荷神社の「明」からの『明烏(あけがらす)』、お楽しみください。
<事前確認コーナー>
明烏・・・
江戸時代にとても流行(はや)りました新内(しんない:新内節)、『明烏夢泡雪(あけがわすゆめあわゆき』がありました。
明烏はこれをもじっています。
ですから、登場人物、「時次郎」も「花魁(おいらん)浦里(うらさと)」も同じです。
なお、清元では「明烏花濡衣(はなのぬれぎぬ)」、常磐津では「夢泡雪」、文楽での義太夫では「明烏六花曙(ゆきのあけぼの)」、歌舞伎になりますと「明烏」となります。
新内節(しんないぶし)・・・
浄瑠璃の一流派。
花街の流しとして発展、遊女たちに好まれました。
哀しい女性の人生を歌い上げます。
大門(おおもん)・・・
吉原の出入り口は大門の1か所のみ。火災の時は他にも開くそうですが。
番人がおりますが、遊女の外出を見張るため。明烏ご一行には本来無関心。
明け六つ(午前6時)に開けて、夜四つ(午後10時)に閉めますが、その後はくぐり戸を利用するそうです。
『明烏』
日本橋田所町の日向屋(ひゅうがや)の若旦那・時次郎さんは、晩熟(おくて)で堅過ぎるまじめ男。
父親の半兵衛さんは、息子の将来を憂慮していました。
そこで町内の源兵衛さんと太助さんに、吉原の遊びの指南を頼みます。
でも、本人には「お稲荷さんのお籠(こも)り」と嘘を言い、向こうへ着いたらお巫女(みこ)さんへたんまりご祝儀を払うよう、ご利益(りやく)を得るため、と言い含めて送り出します。
二人に連れられ吉原の大門をくぐって遊郭へ入った時次郎さん、そのうち帰りたがります。
源兵衛さん、ここでまた嘘をついて脅します。
「大門を3人でくぐったのに1人で出ていこうとすると、怪しまれて縛られる」と。
花魁の浦里と仲良くなり、夜が明けても時次郎さん、今度は帰ろうとしません。
源兵衛さん「帰りましょう、置いていきますよ」
すると時次郎さん「帰れるものなら帰ってごらんなさい、大門で止められるから」
近くの旧跡をご紹介します。
稲荷堀跡(とうかんぼりあと)・・・
江戸時代初期から明治期まで、日本橋小網町と日本橋蛎殻町1丁目の境界沿いには「掘割」がありました。
江戸時代中期までは、箱崎川から北西に入り込んで、東堀留川へと通じる長い入堀でした。
江戸時代の当地域は、大名や旗本などの屋敷が建ち並んでいた場所で、こうした武家屋敷を囲むように入堀が設けられ、舟運の便が図られていました。
延宝年間(1673年~1681年)の地図には、稲荷堀の西側に陸奥磐城平藩(むついわきたいらはん)安藤家、対岸に播磨姫路範藩酒井家と安藤家の屋敷があり、両家の間を流れるように東へ折れた入堀は、土井家(下総古河藩(しもうさこがはん)・越前大野藩・三河西尾藩)の屋敷が建ち並ぶ入堀(土井堀)へと通じている様子が確認できます。
なお、「稲荷堀」の俗称は、堀の西側にあった安藤家屋敷の北西稲荷神社が祀られていたことに由来すると言われています。
稲荷の字音「とうか」から、この入堀を「とうか(とうかん)ぼり」と称したようです。
掘割としての稲荷堀は、明治末年に至って埋め立てられ、現在は町境の道路となっていますが、かつて掘割の通っていた場所は「とうかん堀通り」の道路愛称としてその名残を留めています。
明星稲荷神社
日本橋小網町4-9
東京メトロ日比谷線・都営浅草線 人形町駅 A2出口を出て人形町通りを車の一方通行の反対方向の右へ約150m、「水天宮前」の信号交差点を右折。
約200m先に「銀杏八幡宮」があり、その先が五差路の「蛎殻町」交差点。
左折して「とうかん通り」に入り、次の角のホテル「アルモント イン 東京日本橋」さんを右折。
約20mの左に「明星稲荷神社」の参道があり、左折してさらに20m進むと左側に神社はあります。