こあら

中央区の島物語・佃島

東都名所佃島入船ノ図 歌川広重(初代)画 江戸期

「佃煮」の由来が佃島にあるのは有名な話ではないでしょうか。

佃煮は、佃島の漁民が江戸湾内で獲った小魚などを煮て保存食として作ったものです。
江戸時代からの漁師町である佃島には、今でも江戸時代から創業している佃煮屋さんが3軒営業をしています。

江戸時代には風光明媚な場所として知られ、浮世絵にも度々描かれました。
明治22年(1889)刊行の「日本橋魚市場沿革紀要」に記された成り立ちを基に佃島についてご紹介します。

摂津国から江戸へ

摂津国西成郡佃村・大和田村の漁民と徳川家康との縁は、天正年間(1573〜1592)に遡ります。徳川家康が京へ上がる際に神崎川へ舟を出したことがきっかけで、御菜魚の納入や船による西国への使いを務めるようになったそうです。慶長年間(1596〜1615)には佃村の名主・森孫右衛門が安藤対馬守により江戸における将軍の御菜御用の命を受け、一族7人と佃村・大和田村の漁民33名とともに江戸へ下りました。

石川島を造った石川さんとも関係あり!

江戸へ来た漁民たちは、当初小石川の安藤対馬守の屋敷に暮らしていましたが、その後日本橋小網町の船手頭石川大隅守邸内に移っています。この石川大隅守とは幕府より隅田川の小島を拝領し、石川島を築いた石川さんなのです。

漁民たちは慶長18年(1613)に幕府御用掛けとして江戸湾近辺で自由漁業を願い出て、これを許されました。その見返りとして幕府への御菜魚納入のほか、将軍御成先での漁の実演や鷹狩用の鷹に与える今年や小動物を飼育するための小エビや小ウナギの納入、出水の際に隅田川への船人足の派遣などが義務付けられました。

佃島を造る

漁民たちは武家地に仮住まいをしながら漁を行っていましたが、寛永年間(1624〜1644)に武家地内へ町人の居住が禁止されると、石川氏の拝領した隅田川河口の島(石川島)の南続きの干潟およそ8550坪を拝領し、築き立てを行いました。正保元年(1644)2月に完成し、本国佃村の名にちなんで「佃島」と命名し、ここに移り住みました。
築き立て間もない慶安2年(1649)の佃島には戸数80軒、160余名漁民が居住していたそうです。

島の形に注目!

島の形に注目! 中央区の島物語・佃島

明和江戸図(1771)「中央区沿革図集ー月島篇ー」より


佃島は大きな四角形と細長い四角形、2つでセットの島を橋で繋いだ独特の形です。
2つの島の間は舟入堀です。
漁民が造った島ならではの工夫です。

現在の形と比べてみると・・・

現在の形と比べてみると・・・ 中央区の島物語・佃島

周りが埋め立てられているものの、佃島の元の形が見て取れます。

佃小橋

佃小橋 中央区の島物語・佃島

上の古地図にも見える大きな四角い島と細長い島の間の橋は、佃島の完成と共に架けられました。現在の橋は昭和59年(1984)に架け替えられたものです。間の水路は今でも舟入堀として利用されています。

赤い橋と後方の大川端リバーシティ21のコントラストは、なかなかのインスタ映えスポットです!

 中央区の島物語・佃島

佃小橋の下には住吉神社の本祭りで使われる大幟の柱が腐食防止のために川底に埋められています。

佃島漁民と白魚漁

佃島漁民と白魚漁 中央区の島物語・佃島

「佃島 白魚網」『江戸名所図会』より 斎藤月琴ほか編 江戸期

佃島漁民は江戸城へ白魚という小魚を献上していました。また佃漁民とは別に「白魚役」という白魚漁専門の集団もいました。漁は夜間に提灯を掲げて行われ、水揚げされると漆塗りの献上箱に入れて早朝に江戸城へ運ばれました。白魚の漁獲量が減ったこともあり、江戸時代中期には別の小魚を献上するも、結局、白魚献上は終了し、年に40両を金納することになりました。なお明治14年(1881)に宮内省と徳川家への献上の慣例が復活したそうです。

 中央区の島物語・佃島

白魚献上箱(区民有形文化財 歴史資料) 明石町の郷土天文館収蔵

住吉神社

住吉神社 中央区の島物語・佃島

正保3年(1646)摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区)にあった住吉神社から分社して現在地に遷座しました。境内にある水盤舎・陶製篇額は区民有形文化財です。

本殿は江戸城、そして摂津国の方向を向いて建てられています。

本祭りは3年に一度、住吉神社が遷座されたという旧暦の6月29日前後(現在の8月6日前後)に開催されています。獅子頭や神輿の宮出し、船渡御などが行われ、江戸風情を伝える祭りとして広く知られます。(今年は本祭りの年にあたりますが、開催については住吉神社のホームページ等ご確認ください。)

佃島と対岸を300年結んだ交通機関・佃の渡し

佃島と対岸を300年結んだ交通機関・佃の渡し 中央区の島物語・佃島

佃島が完成した翌年には、鉄砲洲との間に渡し(渡船)が置かれました。

昭和2年(1927)東京市は手漕ぎ渡船を廃止し、無料の曳舟渡船を開始しました。その記念として、佃一丁目(佃公園内)と湊三丁目(佃大橋橋詰)に石碑が建立されました。

昭和39年(1964)佃大橋が完成すると、橋の建設に伴って、隅田川流域では最後まで残った渡船でしたが、300年の歴史の幕を閉じました。

 

 中央区の島物語・佃島

佃大橋

江戸時代からの町割の残る町

江戸時代からの町割の残る佃島には、幅が1メートルもないような細い路地があります。

探検気分で路地を進むと、奥に天台稲荷地蔵尊。
まるで家とイチョウの木と一体化したような状態です。

 中央区の島物語・佃島

佃島は、関東大震災、戦災を奇跡的に免れたエリアです。
関東大震災や空襲の火災を住民がバケツリレーによる消火活動で食い止めたという話があるそうです。
路地が狭いので、現在でもバケツリレーによる消火訓練をしているとか。

住吉神社のお祭り、口説き唄に合わせて静かに踊る盆踊りなど、独自の文化を残した江戸情緒の面影を残している町です。
風情ある散歩が楽しめます。

参考:「中央区沿革図集ー月島篇ー」「中央区立郷土天文館第13回特別展 月島百景」「中央区ものしり百科」