日本橋から青空を取り戻せ。国と都の合同プロジェクト、
高速道路地下化計画が始動!
今から約400年前、江戸開幕とともに架けられた日本橋。五街道の起点と定められて以来、日本の中心であり、繁栄を象徴してきました。現在の橋は石橋になって3代目。明治44年に完成したアーチ型の美しい花崗岩の橋で、翼が生えた大きな麒麟と獅子のブロンズ像が見事です。橋のふもとには観光船乗り場、魚河岸記念碑、高札場レリーフ、徳川慶喜の筆による橋銘板、日本国道路元標や日本橋由来記など見所一杯。訪れる人が絶えません。
1964東京オリンピックの開催が決まっていた日本は高度成長期の真っ最中。当時の交通事情は極端に悪く、羽田空港からメイン会場の代々木まで2時間以上かかっていました。特に日本橋付近の渋滞はひどくて平均時速は15~20キロのノロノロ運転。とても外国からゲストを迎えられる状態ではありません。新たに高速道路が必要。でも工期は5年だけ。用地を買収していては、とてもオリンピックに間に合いません。そこで、考えられたのが全体の85%以上を川や道路の上を通すという「空中道路」です。こうして日本の中心、日本橋の上を無粋な高速道路が走ってしまいます。皇居の前にも高速道路を通そうとしたそうですが、さすがにこれは却下されました。本当に、なんでもありだったんですね。
そして、57年後、奇しくも次の東京オリンピック・パラリンピックの開催年に日本橋に青空を取り戻そうという計画、別名、智恵子プロジェクトが動き出しました(東京には空がないという。ほんとの空が見たいという。あたたら山に毎日出ている青い空がほんとうの空だという。「智恵子抄」 高村光太郎)
赤線の部分、江戸橋から神田橋出入り口まで日本橋川上の約1.1キロ
の高速道路を地下化。
2021年1月26日、首都高速道路(株)は江戸橋と常盤橋出入り口を廃止すると発表しました。廃止日時は5月10日。首都高速道路日本橋地区地下化事業の実施に伴う廃止で、2035年までに地下トンネルが開通し、2040年までに現高架橋が撤去されて、日本橋に青空を回復する予定です。
高速道路が撤去された後の景観はいかに?
中央は高速道路で覆われる前の1955年ごろの写真(右側銀座方向、左側室町方向)。右側に野村証券ビルが見えます。右と左の写真は2021年1月に日本橋の上から撮ったもの。右に同じ野村証券ビルが、左にかって魚河岸で賑わった地域が映っています。
中央の写真、日本橋の左手にかって帝国製麻ビルが、右手の斜め奥に前島密が建てた初代の郵便局がありました。川を少し進んで行くと(隅田川方面)、右手に大正・昭和の面影を残す日本橋ダイヤビル、次いで昔の兜町の雰囲気を伝える3層構造・アーチ窓の日証館が見えてきます。この日証館は渋沢栄一邸があった場所に建っています。
日本橋川を活かした「東洋のヴェネチア」を目指したことがありました。
明治時代に入ると、日本橋は巨大な東京港を臨む水運都市の核に位置付けられました。そのリード役を果たしたのが渋沢栄一と三井財閥で、今も日本橋に建つ三越と三井本館がそのシンボルです。イタリアのヴェネチアを手本に日本橋川沿いには多くの洋風建築物が建てられ、特に第一国立銀行、三井銀行など独特の味わいを持った和洋折衷の疑洋風建築の人気は高く、多くの錦絵に描かれています。
明治の文化人たちは鎧橋にパリのセーヌ河を感じました
前方に見える鎧橋(日本橋より数百M隅田川寄り)の左側たもとに開業した西洋料理屋、メイゾン鴻の巣にパリのセーヌ河の香りを感じた作家や詩人たちが集います(パンの会:小山内薫、北原白秋、永井荷風、谷崎潤一郎、武者小路実篤、島崎藤村他そうそうたるメンバー多数)。あまりの喧騒に警官が出動したこともあったそうです。高村光太郎が智恵子に出会ったのはこのメイゾン鴻の巣でした。
かっては水都の景観が眺められた日本橋。関東大震災、空襲、それに続く高度成長期と1964東京オリンピック前の交通インフラ工事でほとんどの川や建物が消滅してしまったため、今では東洋のヴェネチアの片りんも残っていません。
日本橋1丁目再開発と日本橋青空化プロジェクトがきっかけとなって、日本橋は水辺と親しむ街に変わっていくことでしょう。
30年後の日本橋、見てみたいですね。もう少し早くなりませんかね。私、体がもつかどうか・・・
※写真:銀行発祥の地の表示板、江戸博物館の展示他