こあら

中央区の島物語・月島

月島橋から見た月島の夜景(新撰東京名所図会)明治30年(1897)中央区沿革図集―月島篇―より

月島に漂う下町の雰囲気、まるで江戸時代から残るもののように感じませんか?
しかし月島は、明治時代の半ばに造られた埋立地なのです。

月島の素?!

月島の素?! 中央区の島物語・月島

明治9年(1877)のこの地図には石川島と佃島が描かれています。

では、佃島の下のこの四角、いったい何だと思いますか?

 

 中央区の島物語・月島

四角の正体は佃島砲台です。

幕末の元治元年(1864)、佃島の南側に江戸湾防備用の砲台が建造されました。
大きさは東西約70m南北約72mのほぼ正方形で面積は約1,370坪だったと言われます。

佃大橋近くには説明板があります。<説明板・月島1−1−8先>

明治時代に入り、東京には国際貿易に向く港が必要になりました。しかし、東京湾は隅田川から土自然堆積のため水深が浅く、大きな船が入ることができません。
築港のため、明治16年(1883)から土砂の浚渫工事が計画され、またこの土砂で埋立地の造成が計画されました。その埋立地の起点となったのが佃島砲台でした。

 中央区の島物語・月島

<新撰東京全図1892年・中央区沿革図集―月島篇―より>
砲台の南に埋立予定地が長方形で示されています。

月島誕生

月島誕生 中央区の島物語・月島

「東京一目新図」(1897)

明治20年(1887)に着工し、25年(1892)に完成したのが月島第一号埋立地です。
 
この時、埋立地の名前は「築島」と「月島」の町名案が討議され、最終的に月島になりました。昔からこの辺りが月の名所であったためという説があるようです。「築島」では、あまりに文字通りですよね。同じ読みなのに、うまい名前を付けたものです!


 
さらに2年後の明治27年(1894)には月島第二号埋立地、明治29年(1896)には新佃島も造成されました。

月島埋立の痕跡

月島埋立の痕跡 中央区の島物語・月島

朝潮運河の護岸(朝潮大橋から月島川にかけての間の月島二丁目・四丁目)には、月島第一号埋立地を工事した当時の石垣を今でも見ることができます。

 中央区の島物語・月島

工業の町・月島

埋立地が完成した翌年の明治26年(1893)には日本鋳鉄株式会社という鋳鉄メーカーが操業を始めたのを皮切りに、主に機械、金属製造の工場が営業を開始しました。石川島造船所(現I H I)の下請け工場も多く、月島は東京の臨海工業地帯として発展しました。

大正9年(1920)の「月島調査」によれば工場数は214、人口は約3万人だったそうです。

無料の渡船?!

無料の渡船?! 中央区の島物語・月島

明治25年(1892)から昭和15年(1940)までは「月島の渡し」と呼ばれる渡船が現在の月島三丁目と築地七丁目を結んでいました。
当初、鈴木由三郎が始めた私設の有料渡船であったのを、明治34年(1901)からは東京市の運営となり、翌年から汽船曳船2双による交互運転を開始し、渡賃も無料としました。工業地帯としての発展に伴う乗客の増加に対応するため、徹夜渡船を行ったこともあります。

佃の渡し、月島の渡し、勝どきの渡しの3つの渡船の1日平均利用者は5万3千人を数えました。
月島の渡しと勝どきの渡しは、勝鬨橋の完成により、廃止されました。

昭和63年(1988)に地下鉄有楽町線月島駅の開業です。平成12年(2000)には地下鉄大江戸線月島駅と勝どき駅が完成してアクセスが便利になりました。

下町情緒を感じる街

下町情緒を感じる街 中央区の島物語・月島

月島には多くの工場で働く人々とその家族が暮らしていました。
長屋形式の住宅では、真ん中にある共用水栓を十数戸が使っていました。

当時最先端の工業地域、月島でしたが、町割は幅六間(10.9m)道路で囲われた正方形の街区は六十間四方(109m)で作られました。これは江戸時代の町割と同じなのです。

この町割によって、住民の距離が近くなり、下町の雰囲気ができたのでしょう。

 

もんじゃストリート(西仲通り商店街)には多くのもんじゃ焼き店があり、観光客を呼び込んでいます。

ここにもんじゃ焼店が増えたのは、平成に入ってからというと少し意外な気がしますね。

この通りからちらっと覗いてみると、路地。

月島らしさを楽しんでみませんか。

 中央区の島物語・月島

参考:「中央区沿革図集ー月島篇ー」「中央区立郷土天文館第13回特別展 月島百景」