今昔 蛎殻銀座と水路
「蛎殻銀座跡」と書かれた説明板が人形町通りと甘酒横丁の交差点に立っています。
寛政12年(1800年)に、寛政の改革の一環として銀座制度の粛清が行われ、幕府直営の度合いを強めた銀座が、蛎殻町、現在の人形町1丁目に再発足しました。この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれ、明治2年に新政府の造幣局が設置されるまでの69年間存続しました。
浜町川から南西に入る一直線の短い水路が人形町通りまで延び、多様に機能していました。
かつて江戸時代初期には廓堀として、明暦の大火後に吉原が浅草に移転しても竃の荷揚げ河岸として埋め立てられず利用が変遷し、蛎殻銀座ができてからは、原料や資材の輸送路として機能し続けたそうです。
竈河岸(へっついかし)と呼ばれた水路の軌跡は道路や建物間の通路として残っています。
◆東京都立図書館デジタルアーカイブ
日本橋北内神田両国浜町明細絵図(部分)
◆古地図で歩く!
今昔 時代を見てきた堀(2021年12月)