南伝馬町名主「高野新右衛門」著『撰要永久録』から
南伝馬町(現京橋2丁目)の名主高野家は代々「新右衛門」を名乗り、13代まで遡ることが出来ます。
初代新右衛門 直雅 大永7年(1527年)~慶長17年(1612年) ・・・・・・・・・・・ 12代新右衛門 直清 天保7年(1836)1月~明治8年9月 13代新右衛門 新七郎 安政3年(1856)~大正8年6月 高野家の支配地は5番組に属し、南伝馬町2丁目・南鞘町・南塗師町・松川町1~2・通3丁目代地が支配地域ですから、現在の京橋2丁目の町会長という立場でしょうか?南伝馬町は現在東京メトロ銀座線京橋駅前明治屋付近です。同じ伝馬役を務める馬込勘解由が支配する大伝馬町、宮部又四郎が支配する小伝馬町からは2kmほど離れています。大伝馬町・小伝馬町付近には博労(ばくろう)町などもあって、馬人足の調達に困ることはなさそうですが、南伝馬町の周りは畳町・大工町・鍛冶町など馬とは関係のない環境ですから本当に伝馬役が務まったのでしょうか?しかし元禄13年頃には大伝馬町80疋に対して南伝馬町63疋という記述もあるので、それなりの支配力を持っていたようです。
高野新右衛門宅は明治6年の沽券図が示すように南伝馬町2丁目15に位置しています。土地の大きさは93坪余(307㎡)で名主にしては小さいという印象ですね。
撰要永久録
高野家文書として残されている代表的なものが「撰要永久録」です。これは10代直孝の編集になるもので、3部に亘って江戸の町を解明しています。
例えば「女下請状」というものがあります。「入り鉄砲に出女」といわれるように、当時女性の旅行は厳しく制限され女手形が必須でした。実家への里帰り、参詣・喧嘩、口論の末の駆け落ち、勘当など興味をそそる記事が多く掲載されています。
文化10年の高野家普請絵図面も掲載されていますが、これも面白い。文化9年の類焼後普請しなおした時のもので、屋敷の間口は4間、奥行は10間、一部が2階、土間の奥に8畳があり、その奥に6畳。この6畳を役所として使っていたらしい。正面に向かって右側には大戸口、土間から炊事場・湯殿と続き、その奥には居間と奥座敷、延べ床面積は50坪程度の屋敷だったらしい。
建蔽率=50%、容積率=60%と言う感じですか?
町名主
文化11年7月施工の上水の施工工事についての著述もあります。この敷設替工事というのは、分岐点に設けられた内径1,000ミリの埋枡2つと、これをつなぐ内径300ミリの木桶で長さ60mとが「朽ち損じ」たため新規のものに取り換えるというものでした。
工事は請負入札で、工期は「晴天20日限り」、工事中は車止めしました。急な断水が発生しては住民は迷惑なので、2~3日前に町触れで通知しました。着工前に町役人が御普請方役所に出向き、工事の概要を届けます。竣工後にも水口の見聞をしてもらって、道路をもとのように埋め立て車止めの札を取り払い、竣工届を役所に提出します。
工事代金の支払いは、工事の半分が完了した所で代金の1/3を、残りは全部終わって見聞が終了し埋め戻してから支払うというプロセスを踏むようでした。
神田雉子町の名主斎藤幸成は3代にわたり、江戸名所図会・東都歳時記・声曲類纂・武江年表・百戯述略などを著述しています。このように町名主の中には極めて高い教養を身に着けたものもありましたが、中には世襲のため町の業務は才覚のある者にまかせ悪だくみをしたり、町支配を熱心に行わない者もいたようです。このようなことから「名主肝煎(きもいり)」制度を作り、組合内の統制を図り町方取り締まりに関わる申し合わせをするように命じたようです。
【参考文献】
1) 中央区沿革図集(京橋編)
2) 水談義: 堀越正雄(1993年 論創社)
3) 都史紀要「元禄の町」(東京都公文書館)