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川柳『まん丸な日傘の並ぶ茅場町』--『茅場町傘』

江戸の傘は「下り傘」と言われ、大阪の大黒屋が造った「大黒傘」が原型でした。江戸で作られるようになったのは茅場町界隈、川柳に「まん丸な日傘の並ぶ茅場町」という句があります。傘や下駄を売る店が多かった「照降町(てりふりちょう)は小舟町一帯です。落語「髪結新三」の中に、雨が降ってきたので照降町で下駄と傘を買って履き替えたという場面があります。照降町には下駄と雪駄を扱う店が多く、雨が降れば下駄と傘が売れ晴れれば雪駄が売れたといいます。照っても降っても商いが栄える町なので、このような名前が付いた訳ですね。

時代劇で浪人が傘の繕いをしている場面が良く見られますが、番傘は現在の金額で5,000円~7,000円、日傘で20,000円以上と高価で、修理でも少しは生活のたしになったのかもしれません。

番傘が一般に広まったのは呉服商の「越後屋」が宣伝のために屋号と番号を大きく書いた「貸し傘」を扱ったためと言われています。これが「番傘」の由来です。番傘の最多の番号は1,500と言われていますが、実際には1,500本も作っていなかったという話です。ブランディングを確固とするためにホラをふいて1,500と言ったらしい。ブランディングの効果はてきめんで、以下のような川柳が見られます。

川柳に「江戸中を越後屋にして虹がふき」とあります。

添付の写真は現在の三越が2015年頃に実際に行った「貸傘」制度を知らせる写真と越後屋が作った「番傘」のイミテーションです。

「ごふくやのはんじょうを知るにわか雨」

「あいつらが貸すで売れぬとからかさ屋」

「古傘にいつも越後が、二三本」

茅場町の傘屋

茅場町の傘屋 川柳『まん丸な日傘の並ぶ茅場町』--『茅場町傘』

傘の製造は当初京都や大阪で行われ、江戸では下り物として販売する店ばかりでした。しかし「続江戸砂子」(1735年刊)に江戸の名産品として『茅場町傘』が載っています。茅場町は傘つくりの職人が多く住んでいたようで、この地傘屋は茅場町の瑠璃光薬師の裏手にあり、薬師の縁日(8日と12日)になると参拝客で大変賑わいました。参詣客は8日に傘を注文し、手付金を置いて帰り12日に引き取るという形式だったようです。川柳の題材になるほど江戸市民には一般的な習慣だったのでしょう。

「傘は八日の手付け十二日」

添付の「絵本続江戸土産」の絵の右下には、地傘屋の軒先が写っており傘製造の様子が紹介されています。受注済で顧客が来るのを待っているかもしれない傘が数本つるされています。

 

歌川国芳の「荷宝蔵壁のむだ書き」

歌川国芳の「荷宝蔵壁のむだ書き」 川柳『まん丸な日傘の並ぶ茅場町』--『茅場町傘』

天保の改革(1841年~1843年)以来、役者浮世絵には出版差し止め令が出ていました。そこでなんとか出版しようと、絵師や版元は工夫して、この絵は「浮世絵ではない。落書きだ」という主張をした『落書き』を出版しています。この落書きの中に、相合い傘が書かれていますので、この頃相当量の傘が普及していたと考えられます。相合い傘の男女をひやかすことが行われていた位ですから。

【参考文献】

1) 絵本江戸土産 鈴木晴信

2) 伊勢半本店 紅ミュージアム通信 Vol.18

3) 本八丁堀之絵図 麹町拾丁目 近吾堂(嘉永7年、1854年)