【遠足シリーズ第48弾】明石町ゆかりの地・明石浦へ
こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
突然ですが、中央区明石町といったら皆様は何を思い浮かべますか?
築地居留地、聖路加国際病院など、異国情緒漂う明治時代以降のイメージが強いのではないでしょうか?
そんな明石町ですが、元々は江戸湊に面した小さな町で、国立国会図書館 デジタルコレクション『〔江戸切絵図〕築地八町堀日本橋南絵図』(1849年~1862年出版)には「明石丁」と記載されています。
江戸時代には、赤穂藩浅野家の上屋敷をはじめいくつもの大名屋敷があった場所で、明石町にはそのことを示す史跡が残っています。
では、そもそもなぜ「明石町」と呼ばれるようになったのでしょうか?
中央区のウェブサイトによると、江戸時代に播州(兵庫県)明石の漁師がこの地に移住した説、風景が明石浦に似ていた説があるそうです。
もっと詳しく知りたくて『私たちの町 築地六丁目 七丁目 明石町』(1972年、築地六、七丁目、明石町記念誌発刊委員会)を参照したところ、以下の記述が見つかりました。
「明暦三年の江戸大火後に焼土を利用して埋立築造されたことは、小田原町と同じであるが、いくぶん小田原町側より早く埋立が完了していたようで、寛文初期に明石町の海岸の一帯には、僅かではあるが、漁師が住んでいたようである」(p. 85)
「佃島を目前に控え、遠く房州の山々を眺める風景は、明石浦から淡路島、四国の山々を眺めるようなもので有り、播州赤穂の人々が、築造された明石町に移住したとするなら、おそらく郷里の風景に似て居ることから、明石町の名が起立したものと想像される」(p. 90)
今や明石町から房州の山々を眺めることはかないませんが、ふと思い立って万葉集の時代から歌枕になっている兵庫県明石市の明石浦(明石の浦)を訪れてみました。
こちらは、明石浦漁業協同組合のある辺りから撮影した一枚で、遠くに明石海峡大橋が見えています。
船の奥に見えるのは淡路島。江戸時代には遮るものものもなく淡路島が望めたことでしょう。
ちなみに、現在佃大橋(中央区湊・中央区明石町側)から佃を望んだ風景がこちら。
由緒ある佃煮のお店や人足寄場跡が残る一方、高層マンションが建ち、周辺に埋立地が造成・整備されることで江戸時代からは大きく変貌を遂げました。
海峡と川ではその規模が異なりますが、江戸時代に対岸に見えた風景は、明石も明石町もどこか似たものがあったのでしょう。
明石町から佃を眺め、その風景を故郷明石から淡路島を望む風景に重ね合わせた漁民に思いを馳せる昼下がり。
江戸時代の明石町の記録はあまり書物に残されていませんが、明石の漁民がなぜその地に居住したのかなど、引き続き調査してみようと思いました。