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『中央区』は”江戸区”になっていたかもしれない!

江戸時代の岡っ引き「銭形平次」をテーマとした時代劇の主題歌の歌詞を見てみましょう。

『誰がよんだか銭形平次 花のお江戸は八百八町 今日も決めての今日も決めての銭がとぶ・・・・』

これ以外にも八百八町をテーマとした歌は幾つもありますが、八百八町だった時期はいつ頃のことでしょうか?本当に町の数800に意味があるのでしょうか?『武江年表』によると、「万治元年(1657年)八月、江戸中髪結株、一町に一ケ所ずつ、八百八株に定る。按ずるに、江戸町数 八百八ということ、この時代のことなり」とあります。

幕府は髪結い株、髪結い床の乱立を防ぐため、江戸中の髪結い床の数を定めました。各町に1床として江戸町数八百八町に床数八百八株を設定しました。

江戸八百八町はどこまで広がっていたのでしょうか?江戸は四里四方と言います。五街道を歩くと第一の駅はすべて二里(約8km)の所にあるとされています。東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、中仙道の板橋、奥州・日光街道の千住と、全て二里以内です。

明治11年になっても、日本橋・京橋両区の地域を江戸と考えていた意見があって、両区の名前を第一案では北江戸区・南江戸区としようとしていたようです。我々は「中央区」しかなじんでいませんが、北江戸区とか南江戸区が当時採用されていれば、現在の中央区は『江戸区』になっていたのではないでしょうか?。

北江戸と南江戸の地域、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境ととしていました。というのが江戸の江戸であるという考え方が普及していたのでしょう。

江戸の範囲

江戸の範囲 『中央区』は”江戸区”になっていたかもしれない!

江戸は時代と共に広がっていきましたが、元禄11年(1698年)には江戸内外の分路29ケ所に棒示杭を立て、それから外を「棒はずれ」と言いました。江戸郊外になりますね。

棒示杭とは、境界のしるしに立てられた標柱のことで、街道筋においては、宿場境や距離の基準点を示す重要な施設でした。杭は木製であるため、残念ながら当時の物は残っていませんが、浮世絵などによると描かれた人間や馬の大きさと比較しても、かなり丈の高い木杭のようです。(東海道五拾三次之内 藤川「棒鼻ノ図」 初代広重 保永堂版 神奈川県立歴史博物館蔵)

江戸の南は、新橋川、そこにかかっていた「難波橋」(涙橋)(ナミダ橋)の存在でしょう。江戸放逐になった人が家族のものと別れの涙を流すところです。ミミダ橋→ナンダ橋→ナンバ橋に変わったのでしょう。東海道の新橋を避けて隣の橋から追放したのでしょう。

芝に有名な兼康(かねやす)祐元の本店があり、本郷には支店がありました。江戸の境近くに兼康がある、という事を踏まえてできたのが有名な「本郷も兼康までは江戸のうち」という川柳である。江戸の北の方で江戸払いの罪人を追放する処は、本郷の「別れの橋」であった。この「別れの橋」のそば(本郷4丁目)に兼康の店がありました。

 

参考文献:

1) 日本橋駿河町由来記(絶版):駿河銀行第三代頭取 岡野喜一郎殿起案  駿河不動産(株)協力        編集・出版協力: 中央公論事業出版

2) 日本橋私記: 池田弥三郎