すっとこどっこい

入船・湊 一考察

1603年迄、中央区のほとんどは海でした。埋め立てられ、水路が沢山造られ街が形成されます。水運は街を形成するために重要な交通手段、運搬手段として大事なものでした。

この写真は現在の中央区新川の遊歩道入口近くにある江戸湊があったとする錨のオブジェです。亀島川の出口にあたる位置です。江戸時代このあたりから芝浦あたりまでは鉄砲洲と呼ばれています。海側へ海側へと遷座されてきた鉄砲洲稲荷神社は江戸への物資のほとんどが入ってくる江戸湊の守り神として船乗り人の崇拝を集めます。歌川広重の”絵本江戸土産”や天保年間の”江戸名所図会”には湊稲荷の名称で載っています。現在の神戸や横浜などの大きな港という意味よりも沢山の舟が行き来し人も集まる場所つまりの名が使われます。

 入船・湊 一考察

現在の中央区湊1ー1-1 はブーケ21の入口です。

江戸時代の享保年間(1720年頃)の地図で武家屋敷の並ぶ場所の亀島川沿いに本港町と書かれています。東側は稲荷橋で本願寺方面の隣町は舟松町と記入されています。

その後八丁堀の南側が南八丁堀新湊町とよばれます。

明治になり武家屋敷が無くなり新湊町1丁目から5丁目に町名が決まります。本湊町はそのまま本湊町に、舟松町の川沿いは新湊町6丁目になりました。

関東大震災後の区画整理で新湊町本湊町舟松町南八丁堀新栄町が併合し湊町1丁目から3丁目になります。

江戸湊は伊豆方面への船が発着し、伊豆大島や八丈島からの物資も沢山降ろされた場所だったと中央区教育委員会が発行した”中央区の昔を語る”で先輩方が往時を話しています。

 入船・湊 一考察

現在の中央区入船1-1-1 は桜川公園の新大橋通り側入り口です。

明治になり築地川と桜川(八丁堀)の間のおはぐろどぶに堀が造られます。入舟川と呼ばれ物流に利用されます。川の東側の武家屋敷がどけられて町割りされ、入舟町1丁目から6丁目となります。十軒町入舟町7丁目となり、築地寄りで外国人居留地に指定された所は入舟町8丁目9丁目となりました。関東大震災で復興事業として住居を立てる代替え地の不足に困った政府は入舟川を埋立てます。今の新大橋通りはその一部です。

入舟町に印刷の街以外の名所は靴業発祥の地ミズノプリンティングミュージアムがあるくらいと思っていました。靴業発祥の地は明治3年に西村勝三が革靴の工場を造った場所です、渋沢栄一も支援しています。外国人居留地があったため大変売れて木挽町など5か所に工場を建てます。どこの工場も入舟の靴工場と言われたそうです。ミズノプリンティングミュージアムは日本で初めて活字印刷機械を製造販売した平野富二の印刷機械や福沢諭吉が書いた”学問のススメ”の初版本が展示されています。

明治になってすぐ入舟町軽子橋あたりで中国人蓮昌泰がラムネを販売していたと記録があります。またチャリヘスと呼ばれていたカール・ヤコブ・ヘスが入舟町1ー1でラムネ工場を経営し、後に小田原町でパン屋になります。チャリ舎の名で銀座に出店しフランスパン屋として有名になります。明治初頭、南八丁堀で開校した私立の精果尋常小学校が明治27年に新富小を合併して入舟町1-26に移転したと”中央区の昔を語る”で言う人がいます。明治34頃の生徒数は185人であったがその後の学校の消息は不明とのこと。中央区の教育史の本で調べましたがその校名の記述はありませんでした。公立校が不足していた時代で個人経営の私立学校は多数あった頃です。

 

 入船・湊 一考察

私の家は入舟町1丁目でした。明治末からの商家で関東大震災で焼失後に建て直されました。古い柱に住所表示のプレートが残っていました。京橋區新栄町と書いてあります。祖父にこれは何?と聞くと昔の住所と言われます。入舟町じゃなかったことに軽いショックを受けました。新富町入舟町新栄町そして湊町と並んでいます。昭和7年まで町の区画の途中で町名が分かれていました。理由がよく分かりませんでしたが、本の森ちゅうおうで調べるとどうやら武家屋敷の跡地で区画されて町割りしたようです。

 入船・湊 一考察

昭和7年に新栄町が無くなり、戦後、京橋區中央区に変わります。南八丁堀が無くなり新富町入舟町に組み込まれ縦に新富町入舟町湊町の並びになりました。今の三菱UFJ銀行の裏通りまで入舟町になり1丁目から3丁目に変わりました。現在の新大橋通りは当時市場通りが通称なので、敢えてそう呼びます。関東大震災後の復興事業で入舟川が埋め立てられ広い道路と住宅地がつくられましたが、この境界線は当時の入舟川だったのでしょうか。

 入船・湊 一考察

昭和46年住居表示実施により新大橋通りを境にして新富入船に分かれました。新富入船は町の字が無くなりました。埋め立てられた桜川公園も住所表示が入船1丁目に、新大橋通りの反対側の本の森ちゅうおう新富1丁目です。

ちなみに木挽町小田原町も無くなり京橋地区で町の字が付くのは明石町だけになりました。明石町は1丁目などの丁目もありません。新富1丁目の交差点は最近まで新富町1丁目の表示でしたが今は町の字が消され新富になっています。有楽町線の地下鉄の駅は今でも新富町ですが。

 入船・湊 一考察

ずっと入船が地元の私は当たり前のこの地名に強い関心はありませんでしたが、30年ほど前、仕事で浦安へ車で向います。信号で停止した交差点が〇印の入船でした。数日後別の仕事でまた浦安へ行き道に迷いふっと見ると住所表示が▢印のです。湊の字ではありませんですが、浦安市にも入船、中央区と同じ響きの名があると記憶に残りました。

 

 

 入船・湊 一考察

4年前、所要があって奄美大島へ行きました。宿泊したホテルの住所が奄美市名瀬の入舟町(〇印)でした。翌日用事のあった場所に歩いて隣町に移動したらそこの地名が港町(▢印)でした。湊ではありませんが隣同しである事にもちょっと感激しました。名瀬は元々名瀬市でしたが合併して奄美市に組み込まれました。名瀬地区は奄美で一番の繁華街です。ちなみにすぐ横に銀座通りもありました。

 

印刷の街で取り上げた時、入船・湊を調べました。

入舟・入舟町・入船・入船町 は1都1道14県 

湊・湊町・港・港町 は1都1道1府33県 に  その地名がありました。

新湊や港北、港南などは除きましたが、やはり海に囲まれた国です。

海無し県の栃木や岐阜には湊町があり、長野は湊の地名があります。人と物資の集まる地でしょうね。

 入船・湊 一考察

2020年に人形町の世界湯が閉店しましたが、今中央区には銭湯が8軒残っています。銀座に2軒、勝どき月島小伝馬町に一軒ずつそして湊と入船です。

右の湊湯はジャグジーやジェットバス、シルク風呂があり、サウナ風呂もやっています。軟水を使用しています。

写真左側は入船湯です。熱いお風呂で有名です。43度強となっています。深い方の湯舟はもっと高い温度で44度はあるようです。江戸っ子は熱いなんて言わねぇからどんどん薪をくべてくんな。いや今時、薪はねぇな。

入船湯はかつては繁の湯という名前でした。残っている銭湯が各々入船の地名で何故か嬉しく思います。