野球のよもやま話のこぼれ話①
5月に野球殿堂博物館へ行きました。2023年WBCの優勝メダルが展示されていました。
6月に改めて写真を撮りに行くとWBCの優勝トロフィーが展示されていました。
ダルビッシュ有により団結していた投手陣は文句なく世界一の投球でした。ヌートバーに引っ張られ近藤健介が繋ぎ大谷翔平、吉田正尚、村上宗隆、岡本和真と続く打線はメジャーリーガーにも引けをとらない攻撃を見せました。源田壮亮を出場させたり投手リレーも上手く回した栗山英樹監督は凄いプレッシャーを跳ね除けました。メンバーの選出からコンディションの維持など100%上手くいったわけではないと思いますが、信じる力を持ち続けたのは凄いと思います。もちろんチームの先頭に立ち続けたのは大谷翔平でした。
選手たちはすぐに各々のチームに合流し活躍を始めました。大谷翔平選手は順調に活躍を続けていて、先日は投手としてメジャーリーグ通算500奪三振を超え、100本以上の本塁打と両方の記録を持つ人はベーブルース以来と話題になりました。
ロバート・K・フィッツの ”大戦前夜のベーブルース” を読みました。以前の ”中央区 野球のよもやま話”に補足を書き込もうと思います。
野球殿堂博物館に展示されている1934年の日米野球のポスターです。選手として晩年になったベーブルースはこの年のシーズンオフにいずれ監督になりたいと主張しますがヤンキースのオーナーに拒否をされ怒っている状況でした。長い船旅が嫌だという理由をつけて日本行きを拒否します。アメリカでの窓口を任されていた鈴木惣太郎はアポイントが取れずルースの散髪中を狙って口説きます。日本行きの契約書を見せても、いくら話しても拒否し続けるルースに困った惣太郎はカバンからこのポスターを取り出し「日本人は皆あなたを待っている」と言うとじっと絵を見つめたルースは突然大笑いをして「OK!OK!日本に行くさ」と言ったそうです。
横浜からの汽車で東京駅に降り立った全米選抜チーム一行は丸の内から銀座をパレードします。ルースは先頭のオープンカーに乗ります。東京駅のホームから改札口も物凄い人です。インターネットも情報番組も無くよくこんなに集まったものです。京橋交差点を曲がったあたりから群衆が押し寄せ車が進まなくなります。興奮したルースは星条旗と日の丸の旗を振って声援に答えます。銀座松屋から銀座三越まで一時間以上かかったそうです。「バンザイと叫びながら数千人と握手した。ワールドシリーズで勝った時のニューヨークパレードよりも銀座は凄い」とルースは振り返ります。
全米選抜チームの日本での第一戦の朝、宿泊した帝国ホテルで朝食をとった後、10時に銀座松屋に向かいます。そこで、一行が山のようなと表現した、御馳走とビールを振る舞われます。11時には野球セールを開催していた日本橋高島屋へ連れられ食堂でサンドイッチや果物、菓子やビールを出されます。高島屋は三円以上の買い物客に試合のチケットをプレゼントしました。この日は先着3000名にベーブルースプロマイドを配りました。このカードは現存が確認されていないレアカードです。そして13時に神宮球場で試合に臨みます。お腹いっぱいだったでしょうね。
全米選抜チームは実力差を見せつけながら全国でサービス精神旺盛に試合をしました。九州の小倉の試合は大雨でしたがどうしても試合を見たい観客も一緒になってグランド整備をして小雨状態で始まります。ゲーリッグは長靴を履いて外野を守り、ルースは傘をさして一塁守備に着きました。この球場は変形なグラウンドでレフトが85mでライトは125mです。7回に打席に立ったルースはライトスタンドを指さしてホームランの予告をし場外ホームランを打ちました。楽しかったでしょうね。
すっとこどっこいの娘と息子の産まれた場所、旧聖路加病院の尖塔です。
よもやま話でスパイについて触れました。来日した全米選抜チームのメンバーには生涯打率.238の捕手モーリス・バーグが含まれていました。北海道から九州まで公式の日米戦18試合と親善試合も行う強行スケジュールのチームで、怪我の多い捕手がたった2人なのに引退間際のバーグが何故選ばれたのでしょうか。バーグは2年前に全日本大学野球連盟の招きで学生指導のため来日しました。その経験が買われたのも事実でしょう。バーグがCIAの前身OSS(戦略情報局)に入ったのは帰国して数年後だと言う人もいますがベーブルースでさえカメラでの撮影に規制をかけられていた状況で危険を冒して函館の警備を撮影したりもしているので、今回の来日で初のスパイ活動を命じられてメンバー入りしたとの説が正しそうです。
新聞を毎日数紙読むのがバーグの日課です。駐日大使の娘が聖路加病院で出産したとの記事を見つけます。大宮での試合の出発時、バーグはチームをそっと離れます。帝国ホテルから銀座、歌舞伎座、築地、本願寺を歩いたとの証言を残しています。出産見舞いに来たと受付を通り、一旦入院場所の5階でエレベーターを降り、誰もいないのを確認して7階まで上がり、塔の内部へ登ったそうです。東京湾の軍艦や皇居周辺、兵器工場など16mmフィルムに収めました。
2018年には真田広之も出演した映画で、バーグを主人公にした ”ザ・キャッチャー・ワズ・ア・スパイ”が作られました。
野球殿堂博物館に展示されている鈴木惣太郎のレリーフです。
経営不振の読売新聞を買い受けた正力松太郎はある日、知り合いの報知新聞池田林儀が銀座一丁目の読売新聞本社に会いに来ます。屋上での雑談で、「読売でベーブルースを呼ばないか」と言われました。費用が掛かりすぎて報知では無理だったとの事。正力は当時、経営を立て直しました。が、発行部数は朝日、毎日に大きく後れを取っていて、野球招聘が読売の販売拡張の切り札になると直感します。早稲田の監督だった市岡忠男を運動部長で入社させ、他にアメリカで交渉できる人材を探します。絹製品貿易会社のNY支店長の鈴木惣太郎はメジャーリーグの魅力に魅せられ、横浜貿易新報にメジャーリーグの楽しさを伝える記事を投稿していました。会社の倒産で帰国した惣太郎を正力はメジャーリーグ関連の記者兼特別顧問として雇い入れます。そしてルースを含む全米選抜チームを編成させました。
日米野球後の1934年にプロ野球、当時は職業野球団の大日本野球倶楽部が結成されます。事務所は数寄屋橋菊屋ビル、今の銀座三丁目の東映会館です。惣太郎は翌年のアメリカ遠征にマネージャーとして帯同します。名前の短縮を求めるフランク・オドゥールに「日本で一番人気のあるメジャーのチームは?」と聞かれ「それはニューヨーク・ジャイアンツ」と答えたため東京ジャイアンツで試合をしました。名付け親ですね。
前回のブログで洲崎球場で行われた日本最初の日本一決定戦について書きました。野球殿堂博物館にも洲崎球場の写真が展示されていました。神宮球場は学生野球しか使えない時代で関東には職業野球の球場がありませんでした。上井草球場についで2番目に、鈴木龍二が球団常務だった大東京軍が、江東区の海の側にあった東京瓦斯の敷地にわずか51日の突貫工事で造った球場です。まだフランチャイズという考え方が無い頃で、大東京軍の本拠地球場なのですが、東京巨人軍も使用します。試合中でも満潮時にはグラウンドが海水に浸かって使用出来ず、コールドゲームも多かったそうです。
1936年洲崎球場での日本一決定戦で沢村栄治が三連投しました。第一戦は沢村が完投で勝利しますがこの試合で沢村から本塁打を打ったタイガースの選手がいます。その名は景浦将。彼もこの試合投手で先発し完投しています。戦前は投手でも投げない日は守備に着く選手も珍しく無いですが、景浦はこの年の最優秀防御率の投手であり、翌年は投手として活躍しながら首位打者と打点王も獲得しました。材木屋の息子で松山商業で剣道部から転部したお祝いにと野球好きの父親から桜の木で造られた重いバットを送られ、それを振って鍛えた怪力の二刀流でした。
洲崎球場で試合をする時の東京巨人軍の集合場所だった呉服橋ほてい屋。独身時代の沢村の定宿でもあり川上哲治と千葉茂が初めて会った場所だとも書きました。千葉茂の ”猛牛一代の譜” では日本橋區呉服橋と書いてあり、鈴木惣太郎の ”不滅の大投手 沢村栄治” では呉服橋東となっていました。なかなか場所が特定できませんでしたが本の森ちゅうおうで中央区沿革図集を調べたら昭和10年の地図の通二丁目四に布袋屋と載っていました。今の日本橋二丁目の上記写真の辺りです。大好きな沢村が寝起きしていた場所だと思い胸の内が震える感じでした。
2015年に2分程の野球の映像が見つかり沢村が投球する映像があったとNHKのクローズアップ現代で放送がありました。わずか一球だけの沢村が投げる映像ですが中京大の教授が画像を解析して、投球速度を大谷翔平に近い150km後半と推測していました。今現在は日本人投手でも大谷や佐々木朗希など160km以上の投手がいます。ただこの時代の職業野球の投手の球速は130km前後と考えられています。1932年に来日したレフティ・グローブは、ラジオで実況した松内アナの「投げました。あ、球は見えません」は有名で、スモークボールと呼ばれますが彼の投球速度は160kmと推測されています。そして沢村のこの映像が撮られたのは洲崎球場の日本一決定戦の第三戦の試合後半でした。前々日完投し、肩の痛みに耐えながら続いて連投した翌日の三連投め映像です。惣太郎は前夜ほてい屋で一晩中馬肉を当てて治療したことを書き残しました。12月中旬、海風の吹き曝しで気温2度の氷雨の中、試合後半の映像でした。投球フォームも、いつもの振りかぶって左足を高くあげる投げ方ではなく、クイックモーションのようにすり足で投げた映像です。肩の痛みを堪えながらの気力のみの投球だったのでしょう。
沢村の左足を高くあげるフォームは、明倫小学校に先生ではないがコーチにきた永井儀蔵が球筋を安定させるために教えた投げ方です。三重県産れで、いとこが沢村の弟と結婚したため親戚になったジャイアンツの投手がいます。昭和40年に20勝投手になった中村稔です。赤ん坊の時、沢村に抱っこされたそうですが終戦時7才ですから野球を教わったことはありません。ただ宇治山田商工で永井儀蔵にコーチを受け沢村のフォームを直すため左足を上げさせた話を聞かされます。引退後ジャイアンツのコーチになりフォームが不安定で伸び悩んでいた西本聖に左足を高くあげる投球を教えます。ときおり左足を上げて投げた西本はライバル江川と並び称されるエースとなりました。なんかいいこぼれ話ですね。
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