中央区 野球のよもやま話

日本野球発祥の地の記念碑が千代田区神田錦町の学士会館にあります。

1872年(明治5)アメリカ人教師のホーレス・ウィルソン氏がこの地で学生に野球を教えました。

この地は東大の前身の開成学校が造られた場所でもあり、翌年には新校舎と運動場が出来、試合を行なえる所にもなりました。

2022年は 野球伝来150年 の記念の年だったのです。

 

今年の野球界はいろいろ印象的なことが起きました。

プロ野球前半の主役は千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希投手です。

あんな完璧な完全試合は2度と無いかも知れません。

彼の活躍が刺激になり、延長戦まで完全試合だった大野雄大投手、その他にも4人の投手がノーヒットノーランを達成します。

後半はヤクルトスワローズの村上宗隆選手の活躍です。

前人未踏の5打席連続ホームランに56本塁打そして22才での三冠王でした。

リーグ最終戦で逆転優勝を決めたオリックスバファローズ

1988年、伝説の最終戦で優勝を逃した近鉄バファローズはオリックスの前身のチームです。

そのまま強力な投手陣で緊迫した接戦を制して日本一になりました。

高校野球では仙台育英高校が頂点に立ち、初めて東北の地に優勝旗が渡りました。

太田幸司でもダルビッシュ有でも菊池雄星でも吉田輝星でもなしえなかった優勝です。

海の向こうでは大谷翔平の活躍です。

投手として規定投球回数を超え、打者としても規定打席達成は近代野球初の快挙。

二桁本塁打と二桁勝利は1918年のベーブ・ルース以来の大記録です。

 

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そのベーブ・ルースが日本に来たのは1934年(昭和9)です。

読売新聞が大リーグの選抜チームを招聘し、長い船旅を嫌がっていたルースには彼の散髪中に、鈴木惣太郎が突然口説きに行ってルースの似顔絵を大きく描いたポスターを見せたところ、結果大笑いして承諾してもらいます。

来日後の全米選抜チームの歓迎パレードで銀座通りは人で埋め尽くされ、ワールドシリーズでの優勝パレード以上だったとルースは後々まで語ります。

その全米選抜チームのメンバーは、ヤンキース最後のシーズンだったベーブ・ルースの他

連続試合出場でアイアンホースと呼ばれた三冠王のルー・ゲーリッグ、3度本塁打王になるジミー・フォックス、綺麗なスウィングで首位打者になった守備も抜群のチャールス・ゲリンジャー、投手三冠を2度獲得するレフティ・ゴーメッツなど監督以下16名の選手団です。

その中に一人無名な捕手が入っています。

その名は モーリス・バーグ  

年に30試合ほどの控え選手が一番よく、一日3時間だけ働き、国中を旅し、上等のホテルに泊まり、素晴らしい人々に出会い、それで給料を貰えるこんないい職業に残っていたいだけと発言する人です。日本で言えば一軍二軍を行ったり来たりの選手でした。

ただ頭が凄くきれると評判で十数か国語を話したとも言われます。

以前日本にコーチに来た事があり2度めの来日でカタカナが書け、通常の会話が出来ました。

16試合行われた試合のうち、神宮の第一戦と仙台、富山の計3試合は出場の記録があります。

それ以外、彼は何をしていたのでしょうか。

彼はスパイでした。

東京有数の高い建物であった聖路加十字架尖塔にのぼり、東京中の写真を撮りまくります。

東京の空襲を行う上で決定的な役割を果たしたと言われます。本当にそうでしょうか。

身内が書き残したものを元に”大リーガーはスパイだった”という著書が作られます。

極秘任務をしていた彼が、戦後自らスパイだと吹聴していた向きがあります。

関東大震災後の復興をアメリカ人も協力し、その時の街並みや資料は手に入っています。また大使館勤務の軍曹が日本に7年いて、その軍曹の情報に基づいて爆撃計画を作ったとされます。

謎の多い生涯でした。

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その全米選抜チームの対戦相手は、2年前に学生中心で行った時、料金を取るのはけしからん、と言われたことで社会人を中心として編成されました。

翌年結成されていくプロ野球球団の先駆けです。

高校を中退してチームに参加したのはヴィクトル・スタルヒン沢村栄治です。

行われた16試合は大差がつきますが、唯一接戦になったのは静岡草薙球場での試合です。

沢村栄治投手がゲリンジャー・ルース・ゲーリッグ・フォックスを連続三振に打ち取るなど善戦。

結局ゲーリッグのソロホームランによって0-1で敗れました。

 

昭和11年に始まった職業野球の最初の王座決定戦で、巨人軍のエースであったその沢村栄治が大阪タイガースを相手に登板します。

試合が行われた場所は現在の江東区東陽町あたりにあった洲崎球場です。

巨人軍は洲崎での試合の時の集合場所は日本橋の呉服橋東にあった旅館ほてい屋でした。

独身の選手は宿舎としている選手も多く沢村もその一人です。

第一戦に完投して勝ちますが、強力打線のタイガースに対抗できるのは沢村一人の巨人軍は沢村を連投させます。

敗れて一勝一敗になった夜、沢村は秋以降の連戦の疲れと腕の痛みで苦しみます。

ほてい屋の女将八丁堀に人を走らせ馬肉を求めてきます。

終夜、厚い幅広の馬肉の切り身をとっかえひっかえ右肩に当てがったと鈴木惣太郎が書き残します。

結果、沢村は気迫の三連投で巨人軍は初の年度制覇を成し遂げました。

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上記の洲崎球場跡の碑に写っている読売新聞東京本社提供の優勝記念写真の拡大しました。

後列で優勝旗を持っているのが沢村栄治投手です。

この時19歳です。

第一戦に望む前夜、呉服橋東ほてい屋で就寝する沢村は緊張で眠れず暗いうちに起き上がり散歩に出ます。

歩いていると大きな神社を見つけ、縋るようにお祈りをします。

ほてい屋に戻り、皆に必勝祈願をしてきたから大丈夫だと笑顔で言ったそうです。

何人かはそれが水天宮だと気づいたそうですが沢村の緊張を気遣い、誰も安産の神様だと言えなかったと水原茂が回想してます。

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その水天宮は久留米の有馬家が参勤交代で江戸にいる時もお参りできるよう御分霊を勧進し、明治5年に現在地に移転します。

屋敷内に祀られた水天宮に塀越しに賽銭を投げ入れる人が多いため、毎月5日に屋敷の門を開放しお参りを許します。

”情け有馬の水天宮” が流行語になります。

沢村栄治がお参りした時はもちろん今のような2階ではありません。

その有馬家の15代めの当主が有馬頼寧(よりやす)です。

伯爵で貴族院議員、農林大臣も務めます。

日本中央競馬会の理事長もやり、今も有馬記念としてGⅠレースが行われます。

その彼が出資をして1936年に職業野球団 東京セネタース が結成されます。

SENATOR は上院議員。当時の日本では貴族院議員の意味です。

中央区生まれの人がプロ野球のオーナーになりました。

経営母体は旧西武鉄道で杉並の上井草に専用の球場を造ります。

中京商で甲子園の優勝投手野口二郎や名人と呼ばれた苅田久徳二塁手がスター選手でした。

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その苅田久徳名人と最高の二塁手はどっちだと言われる選手が千葉茂です。

松山商業で甲子園優勝を経験し、昭和13年に東京巨人軍に入団します。

川上哲治吉原正喜の熊本工業バッテリーらと同期で後に花の13年組と呼ばれます。

千葉茂が初めて川上に会ったのは新入団選手が集まった呉服橋東ほてい屋だったと本人の回顧録に出てきます。

間違って二重契約になってしまった千葉茂のお詫びに父親が同行していたため、川上は幼稚園児じゃあるまいにとバカにしたそうです。

二人はライバルとして凌ぎを削り、戦前戦後を通じ巨人の人気を二分した大スターです。

大スターなのに飾らない性格で人目を気にしないというか、高級な革靴をかかとを潰して履き、おしゃれなシャツをはみ出して着ていたりの人で、威張っているけど優しい人と私の知人は証言します。

知人の勤め先のお店によく買い物に来られ、知人が千葉茂の接客担当を10年近く勤めました。

その千葉茂が食事に通ったお店が銀座スイスです。

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カツライスもカレーライスも好物で、でもせっかちでガッツリ食べたい千葉茂はカレーライスにカツレツを乗っけてくれと注文します。

ボリューム満点のカツカレーをメニューに加えると人気メニューになり、また全国に広まります。

銀座スイスカツカレー発祥の店です。

今は千葉の出身地松山のライムを使ったライムサイダーがカレーに合うと評判です。

私は小学生の時、デパートの食堂で初めてカツカレーを食べ感激した記憶があります。

千葉茂は大好きな食べ物を発明してくれた人であり、大好きな長嶋茂雄背番号3を譲った方です。

千葉茂はジャイアンツを去り近鉄の監督に就任します。

当時の近鉄の愛称は近鉄沿線の伊勢志摩の真珠にちなんでパールズでしたが、千葉茂の監督就任を機に千葉の現役時代のニックネーム猛牛から取ってチーム名を近鉄バファローに変えました。

 

その流れを継いだオリックス・バファローズが今年日本一になり、このブログは完結です。