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百人持ちの石垣運搬用舟入堀

5月24日、伊東市宇佐美の石切り場を再度訪問してきました。伊東市観光協会のガイドの方々と話をする機会を持ち、新しい情報を入手しました。これについては近いうちに報告させて頂こうと思います。今回は石船で江戸まで運んできた石垣をどこで取り込んで、どのようにして江戸城に運んだのかを調べたので説明したいと思います。以前報告した「伊東市ナコウ山石切り場訪問」などの続編です。

現在の八重洲通は外堀通り(川)に直行する形で東西方向に掘られた紅葉川を埋めたてたもので、中央通り(銀座通り)と紅葉川が交差した所には、ブリジストンビルや中将湯ビルがあります。江戸時代には中橋があり、埋め立て後は中橋広小路として歌舞伎小屋ができるなど開けていました。楓川と外堀の間には、十本もの舟入堀がありましたが、江戸城築城用の巨石を陸揚げするために作られました。徳川開府当時にはこの辺りは海で、高級な土木技術があれば海岸から遠浅の沖合まで桟橋を作ったでしょうが、巨石を陸揚げのためにはこのような舟入掘で対応せざるを得なかったのです。クレーン車もありませんでしたので、百人持ちの石は船の甲板から水平に移動させるしかないので、江戸城そばまで舟入堀が作られました。

殆どの舟入堀は紅葉川と同様に外堀まで掘られていましたが、中には丸の内まで通じていたと推測されます。この舟入堀については、慶長9年(1604年)徳川幕府として天下普請を発令し、西国の大名に対して次のような命令が出て実施されました。

①石鋼船三千艘の建造

②船の大きさは、百人持ちの石一つを伊豆半島東岸から運べる規模のもの

③輸送業務は「1ケ月に二往復の運搬」

というものでした。

百人持ちの石とは

百人持ちの石とは 百人持ちの石垣運搬用舟入堀

百人持ちの石は1m角x長さ約二メートル程度のものでしたが、伊豆急 伊豆高原駅前に実物が展示されています。先日撮影してきましたので、紹介しましょう。

体積: 1mx1mx約2m=2㎥

比重: 2.83(安山岩)

から約5.6トンの重量があると推測されます。

『御府内備考』によると、慶長17年6月2日日本橋金座の責任者であった後藤庄三郎光次に、「江戸新開」の土地の町割り=都市計画を命じています。日本橋南から銀座1~8までの”中央通り”に沿った範囲です。東西方向は、東は楓川・西は外濠川でした。日本橋南詰めから京橋までの間に9本、海岸から丸の内まで貫通していた舟入堀は7本あったと推測されています。

石綱船と修羅

石綱船と修羅 百人持ちの石垣運搬用舟入堀

舟入堀を利用して丸の内まで石綱船を曳きこんで石垣工事現場そばまで石を運びました。石綱船とは、石を移動・運搬する時に使う綱の巻き上げ器(ウィンチ)を備える船です。

石は修羅という台に乗せて運ばれました。修羅と地面の間に竹を敷いたり、海藻を挟み込んでネバネバを利用して引っ張りやすくしたりしました。舟入堀は元禄三年には全て撤去され埋め立てられました。最初に紹介した舟入堀の図に名付けたA~Hは埋め立て後、以下のように町屋になりました。

Aの堀跡: 音羽町

Bの堀跡: 小松町

Cの堀跡: 広小路

Dの堀跡: 福嶋町、檜物町、上槙町の会所地

Eの堀跡: 中橋広小路

Fの堀跡: 正木町

Gの堀跡: 松川町・長崎町広小路

Hの堀跡: 常磐町 ?: 狩野家屋敷

この時楓川沿いにあった10ケの橋は全て撤去され、材木町河岸の一部になりました。