ぴっか

白木屋の観音菩薩

こちらは浅草寺淡嶋堂です。雷門を入って左手に見える五重塔の裏、左手に進むと淡嶋堂が見えます。浅草寺本堂の華やかな賑わいと対照的に静かで落ち着いたお堂です。

淡嶋堂は江戸時代から女性の守り神として信仰されています。毎年2月8日には針供養が行われます。日頃針をつかう女性が折れてしまった針を持参し豆腐に刺して針に感謝をし供養するのに参拝されます。また、子どもをくぐらせると虫封じに効くと言われる胎内くぐりの灯籠、第二次世界大戦のときご本尊をお守りした天水鉢などみどころがたくさんです。

なぜ中央区のブログで台東区にある浅草寺の紹介を?実はこちらのお堂にはご本尊と一緒に日本橋にあった「名水白木屋の井戸」から御出現された白木観音が祀られています。

浅草寺淡嶋堂の壁には

浅草寺淡嶋堂の壁には 白木屋の観音菩薩

お堂の正面左手の壁をアップにしてみましょう。ご本尊のお名前の横に「白木聖観世音菩薩」のお名前がかかっています。「正徳二年(1712)御出現」まさに「名水白木の井戸」ができた年ですね。そして「平成十一年(1999)御遷座」つまり東急百貨店日本橋店(旧白木屋)が閉店した年です。平成十一年に白木屋の観音様は白木屋店内から浅草寺の淡嶋堂にご遷座され鎮座されています。お堂の中央には淡嶋堂のご本尊。向かって左手に白木屋観音菩薩がいらっしゃいます。厨子のなかに収まった小さなお姿を拝見することができます。とはいってもお堂の中は薄暗くお姿も小さいので視力の良い方でも見えにくいかもしれません。

白木屋観音菩薩

なにか困難があったとき地中や海中から尊像がでてきてそれを祀ることでうまくいったという話があります。中央区では波除稲荷神社の稲荷大明神もその一つです。波浪により築地の埋め立て工事が困難を極めていた時に海中から得られた稲荷大明神を祀ったところ波が穏やかになり工事が進んだといわれています。白木屋の観音菩薩も白木屋井戸の難工事中に現れたものとされています。

江戸時代、日本橋の呉服商白木屋のあたりは埋立地だったため塩水ばかり。口にできる水が乏しく二代目大村彦太郎安全は私財を投じて井戸を掘ることにしました。工事開始は正徳元年(1711)。掘れども掘れども塩水しか出ず諦めかけていた時に掘り出されたのが観音菩薩の像でした。

元来白木屋の家系は観音菩薩への信仰心が篤く初代大村彦太郎は少年時代に読み書きを教わっていた故郷近江国坂田郡長浜村(現滋賀県長浜市)の和尚様から頂いた観音像をもって初めて行商の旅に出ました。その後江戸へ出てからも守り神としてその観音様を信仰していました。そんな白木屋の井戸から観音像が出たのですからこの奇跡に皆が沸き立ったことは想像に難くありません。

『白木屋三百年史』にも井戸掘りの現場に小さな光り輝く観音菩薩像がありその周りをとりまきひれ伏す大勢の人の絵が「白木観音発掘の図」として掲載されています。白木屋ではこの観音菩薩像を祀り祈ったところ不思議にも良水がこんこんと湧き出てきたとのことです。将軍や諸大名、付近の住民にもこの水は使われ「白木名水」として知れ渡りました。

四万六千日

四万六千日は「しまんろくせんにち」と読みます。毎年7月10日がその日に当たり、観世音菩薩にお参りすると功徳が得られるとされています。そのいわれは諸説ありお米の一升が四万六千粒あるので一升と一生をかけたとか、四万六千日は約126年にあたり人の寿命の限界ともいえるのでこの日にお参りすると一生分の功徳がえられるといわれたようです。

浅草寺のご本尊も観世音菩薩なので四万六千日の7月10日にはほうずき市が開かれ大勢の人が訪れ大変賑わいますね。

白木屋店内に白木屋観音菩薩が祀られていた時の四万六千日の賑わいは次に引用する2人の方の思い出話から想像できます。

 

菊池喜一郎の白木屋観音四万六千日

まずはじめは菊池喜一郎が『江戸府内絵本風俗往来』で書いた「四万六千日」です。彼は4代目歌川広重でもあります。嘉永2(1849)に生まれ大正14(1925)に亡くなりましたが、本の出版は明治38年。東京になって三十年以上がたち江戸の事も知る人が少なくなってきたので江戸っ子風を吹かせようと書いたと前書きで言っているので江戸時代の白木観音を描写したと思われます。

本書ではまずはじめに四万六千日として有名な観音様をあげています。当然浅草寺も入っています。続けて白木屋観音について書いています。

「(略)日本橋通壹丁目呉服店白木屋の観音菩薩は例年今明日とも参詣の善男善女を額かしむ當店の眞中なる入り口より店の奥へ入れ安置し奉れる観音の尊像を拜さしむ去れば白木店内外群集して偈仰すといへども日本橋数丁以内の者のみにして遠方よりの参詣なし故に江戸ッ子観音といふもことはりなり」

大変賑わっていたけれど日本橋周辺の人しか来なかったので江戸ッ子観音と言われていたのは面白いですね。  

 

尾村幸三郎の白木屋観音四万六千日

次は、明治43年日本橋本小田原町魚問屋「尾久」の三男として生まれ、生涯「魚」から離れず築地中央卸売市場仲卸売人として「尾寅」を経営した尾村幸三郎の白木観音四万六千日の思い出を彼の著書『日本橋魚河岸物語』から抜粋します。彼は短歌、俳句をたしなみ文才のある人なので四万六千日の思い出を以下のように情緒豊かに書き残しています。

「四万六千日となると魚河岸っ子に忘れられないものが、白木観音とその夜の賑わいの、粋な抒情味であった。(中略)日本橋を渡って一丁目の左側の角が全部、白木屋だったが、白木観音と、白木名水は、その角を左に曲がった一番隅の入り口の奥の地下にあって、少し降りてゆくと、涼しい水の音と、観音様の神秘さとが、参詣客全部に荘厳な雰囲気をもたらせた。

そしてその往きかえりの楽しみが、白木屋のショウウインドの上側に竝んでつくられた「行燈」の行列で、その行燈には当時の芸能界の名優たちの肉筆の、俳句、文章と、俳画も混ざり、菊五郎、吉右衛門らは勿論、井上正夫、伊井蓉峰から、(中略)個人的に知っていた花柳章太郎、とくに彼は俳句がとくいなので傑出していた。

「行燈」の行列の下を白木観音へお詣りする、浴衣姿の父母、兄弟、もちろん、その中にはおふくろのお伴をして、あるいてゆく私もいたことであろうが、日本橋魚河岸風物詩の美しい情景なので忘れられない。」

大正から昭和初期の四万六千日の様子を観音堂の荘厳な雰囲気だけでなくショウウインドウに飾られた行燈に焦点をあてて書いています。当時の行燈は肉筆で文章や俳句まで書かれていたのですね。これは立ち止まってゆっくり読んでみたかったです。

尾村がその俳句がすばらしかったとたたえた花柳章太郎は日本橋生まれ。新派の女形役者です。泉鏡花『日本橋』初演のおり、お千世の役に起用されこれが出世作になりました。日本橋地蔵寺教会に小村雪岱の描いた「板着色 お千世の図額」を奉納しました。中央区とゆかりが深い方ですね。

 

もうひとつの白木観音

実は浅草寺以外にもう一尊、白木観音様がいらっしゃいます。

風神雷神図屏風で有名な京都建仁寺の塔頭「両足院」です。この両足院は大村家の菩提寺です。

白木屋の大村家は代々白木観音を篤く信仰しましたが、その中で朝夕観音経を読誦することを怠らず特に信仰が篤かったのが六代商全でした。彼は白木観音と同じものを作って菩提寺の両足院に納めたと『白木屋三百年史』に記されています。

2019年に両足院でしろき観音特別御開帳がされています。この記事の説明では寄附八代になっています。『白木屋三百年史』の寄附六代とは違いますね。どういうことでしょうか?

この相違について『白木屋三百年史』でも言及されています。「両足院の什器帳には八代経全が観音像を寄付したと書いてある。現在この観音像が安置してある厨子は施錠されていて寄附者の名前を確かめられない。しかし、昭和の初期に大阪白木屋支店でこの観音像を借り受け奉祀したことがあった。その時、厨子の扉に六代の名前が書いてあったのを見たという白木屋幹部がいた。」とのこと。

白木屋関係者は六代が寄進。両足院の什器帳には八代が寄進。果たして真相は?

『白木屋三百年史』では真相を明らかにしようとう気持ちはなかったようです。

「いずれにしても、白木屋では代々この白木観音像を大切に奉祀して、商売の繁盛、家運の長久を祈っていた。」と信仰心が篤かった白木屋代々を称える形では結ばれています。

六代か八代か?詮索するのは野暮のようです。

名水白木屋の井戸の碑

名水白木屋の井戸の碑 白木屋の観音菩薩

名水白木屋の井戸の碑

【住所】 日本橋1-4-1 COREDO日本橋

時代は移り白木屋は東急百貨店となり現在はCOREDO日本橋になっています。COREDO日本橋の敷地内に「漱石名作の舞台の碑」と並んで「名水白木屋の井戸の碑」がたっています。

街歩きに心地よい季節となりました。浅草寺にお出かけになる方もいらっしゃるかと思います。その際は淡嶋堂の白木屋観音菩薩様にもお参りなさってください。

 

【参考文献】

『白木屋三百年史』白木屋

『江戸府内絵本風俗往来』菊池貴一郎 青蛙選書

『日本橋魚河岸物語』尾村幸三郎 青蛙選書