野球よもやま話のこぼれ話②

東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑です。プロ野球の礎を築き戦争に散華した選手たちの魂を慰めるために建立されました。建立に尽力したのは鈴木龍二です。全くの野球素人でしたが急遽国民新聞の社主から命じられ、洲崎球場を造った大東京軍のオーナーになります。日本野球連盟の戦前最後の理事長になり、選手たちを戦場へ見送り、戦死の悲報を受け止めました。当初は後楽園球場脇にありました。東京ドーム完成で現在地に移行されました。野球殿堂博物館内には、同じく戦争で亡くなった中等学校、大学野球、社会人野球の選手たちを慰霊する戦没野球人モニュメントがあります。

鎮魂の碑には沢村栄治景浦将らとともに吉原正喜の名が有ります。千葉茂と同じ年に巨人軍に入団した花の13年組の一人と”中央区野球よもやま話”にも書きました。吉原川上哲治とバッテリーを組み夏の甲子園で母校熊本工業を2度の準優勝に導いた闘志の捕手です。巨人軍はどうしても吉原を入団させたく、鈴木惣太郎をスカウトに行かせます。惣太郎は投手の川上の打撃練習を目撃します。いいフォームだと思い、ついでに川上にも声をかけました。打撃の神様と呼ばれた川上は抱き合わせの入団でした。吉原は捕手ですが足の速さにも自信があり、グランドでの紹介挨拶時に自慢したら、監督に巨人軍の俊足の先輩3人と競争させられ敗れます。吉原はもう一度と頼み込み今度は3着になりますがまたお願いしますと頼み最後は一着同時で駆け込んだそうです。ある試合ではファールフライを追ってコンクリートむき出しのダグアウトに激突しながら補給します。ケロッとして守備位置に戻りましたがコンクリートは血まみれだったそうです。どちらも ”巨人の星 吉原正喜物語” にも出てくる有名なエピソードです。18才でいきなり沢村スタルヒンの剛速球を受け続けた吉原は実働4年間ですがジャイアンツ史上最高の捕手と言われます。吉原の背番号は27。後に森昌彦大矢明彦谷繫元信伊東勤古田敦也など名捕手の背番号として引き継がれました。

花の13組の一人で背番号26の内野手がいました。活躍出来ずに2年で退団した内海五十雄です。巨人軍で最初の26番でした。65年後に26番を背負うのは内海哲也投手、彼の孫でした。

 

 野球よもやま話のこぼれ話②

野球殿堂博物館に展示されている殿堂入りした有馬頼寧(よりやす)のレリーフです。岩倉具視の孫にあたり貴族院議員でもあった頼寧は競馬の有馬記念に名を冠する人であり、初期の職業野球団東京セネタース(貴族議員の意味)のオーナーであったことは以前書きました。おそらく中央区生まれで殿堂入りした唯一の方です。

東京セネタースの初代監督は横沢三郎。彼の実兄小林次男がマネージャー、三郎の弟四郎七郎も後に選手となります。名人と呼ばれた苅田久徳二塁手と野口二郎投手のスターを中心に人気のあったチームだと前に触れました。

野口二郎は中京商業のエースで夏の甲子園優勝投手です。決勝戦の相手は川上吉原のバッテリーの熊本工業です。春選抜ではノーヒットノーランを含む4試合連続完封勝利の記録で夏春連覇です。19歳で東京セネタースに入団し33勝の勝ち星をあげます。翌年も33勝で防御率0.93で最優秀防御率です。4年目の5月に9回途中までノーヒットノーランで完封勝ちし、その翌日に先発して延長28回を完投します。この年は19完封試合を含み40勝です。527回を投げています。今200回を投げる人も滅多にいません。ちなみに500イニング超えの登板した投手はあと一人だけで5月に野口のノーヒットノーランを止めるヒットを打った林安夫投手です。彼も実働2年で戦地で赴き帰らぬ人となって鎮魂の碑に名前が刻まれました。

野口は登板しない日も4番で出場します。戦後は阪急に復帰し投手として活躍しながら打者としても当時の記録の31試合連続安打を打ちました。

偉大な偉大な二刀流の大先輩です。エンゼルスはなかなか勝てずに大谷も苦しんでいますが、野口は戦争を挟んだ実働13年で優勝経験がありません。200勝以上挙げた投手で優勝経験のない人は野口平松政次だけです。また甲子園で優勝経験のある200勝投手もこの二人だけです。田中将大に頑張ってもらいたいですね。

 野球よもやま話のこぼれ話②

終戦直後、プロ野球はどのように動き始めたのでしょうか。

復帰に向けて、いち早く動き始めたのは阪急と言われます。阪急球団代表だった村上實は、玉音放送を聞いた当日阪急電鉄の太田垣会長に「野球はどうします」とお伺いをたてると「再建せよ」と即答されます。阪急は西宮球場が残されていて、必死に隠し通した数ダースの硬球とユニフォームやわずかな道具類を持っています。阪神近畿日本に連絡をとり関西だけでリーグ戦を組める勢いです。

銀座の読売新聞本社社屋は5月25日の東京大空襲で焼失します。築地本願寺に仮事務所を造り、新聞発行をしていました。惣太郎築地本願寺正力を訪ね、野球再開に向けての話をしますが今一つ乗り気の返事はありません。野球再開を心に期す龍二は知人の大野重治に新橋にほぼ近い銀座弘業社ビルを借ります。9月中頃正力に会いに行く途中惣太郎築地の路上でばったり出会います。読売新聞内での労働争議や戦犯追及などの正力の現状を話し今後を検討します。

 

 野球よもやま話のこぼれ話②

その数日後、龍二は新橋の仙台製作所の看板がある焼けビルに日本職業野球連盟と板切れを掲げます。龍二は戦前最後まで日本野球報告会の看板を守り続けた事務局長です。この焼けビルの仙台製作所の主は小西得郎。粋な江戸っ子で大東京軍の監督も務めました。この前後10年間は野球界とは離れましたがプロ野球が2リーグに分裂した時、セントラルリーグ松竹ロビンスの監督になり初の日本シリーズチャンピオンになります。そして1年であっさりと退任し解説者になって絶大な人気者になった人です。

龍二の元に惣太郎と戦前からの連盟事務員川村俊作が集まり今後の再開に向けて作戦を練ります。狭い事務所なので当然小西も話に加わります。惣太郎龍二正力の自宅へ行き、野球は日本の復興に欠かせないとの認識を共有します。川村は大阪へ行き関西の野球の現状を調べてきます。9月初旬には関西の新聞誌上に阪急が選手復帰を呼び掛け中との記事が出ていました。東京での野球の実情は球場も選手も道具も宿舎も食事も無い状態ですが、カミソリとあだ名された龍二は10月8日に記者を集め野球連盟の再開を宣言しました。

少しづつ選手の消息が分かりつつあるけれど東京ではチームとして態勢が取れない10月半ば、雑談に小西が口を挟み「東西対抗でもやったらどう」と言います。やれるかどうか誰もわかりませんが皆前向きに動き出します。惣太郎は得意な英語でGHQと野球場、特に神宮球場の使用を交渉します。龍二は選手や球団各方面と連絡を取り、川村は宿舎や食料を探し回り、ついに11月23日神宮球場で東西対抗戦が行われました。

 野球よもやま話のこぼれ話②

銀座5丁目日動画廊です。国内最古の歴史があるとされる洋画商です。

9月半ばに新橋の闇市を見に来た小林次男は偶然小西に会いました。東京セネタースのマネージャーだった小林龍二が野球再開に向けて動き出していると聞き、面白いと考え始めます。企業も親会社も無い新しい野球チームを作ることにとり憑かれたように動き回り、ただ資金には困り遠縁にあたる川口証券の社長に当たり個人スポンサーになってもらいます。チーム名はセネタース。経営上の繋がりは全くありませんが、自分も弟たちも関わった東京セネタースの愛称を選びます。小林が専務、弟三郎が監督、四郎がマネージャー、七郎は選手です。連盟への加盟が認められ選手を集めます。東西対抗に飯島滋弥白木義一郎そして大下弘が出場しました。戦前の職業野球経験者のいないフレッシュなチームでした。大下は東西対抗で大活躍をします。翌年再開されたシーズンで20本のホームランを打ちます。戦前の最高本数は10本。飛ばない粗悪なボールでの大記録でホームラン時代の幕が開きます。ただ資金に行き詰まったセネタースは個人の資本家に委ねますが給料の払いも滞ります。最後は昭和21年の大晦日に全選手が日動画廊に集められ、年越し金数百円を渡され来年からは東京急行のチームになると告げられます。年月が過ぎ、現在の北海道日本ハムファイターズへ繋がっていきました。

青いバットを使った大下弘は天才打者と言われ、赤バットの川上と並び称されます。黎明期の沢村栄治、戦後復興期の大下弘そして高度成長期の長嶋茂雄。時代に出現し野球の人気を引き上げた天才と呼ばれた三人です。

 

11月24日の東西対抗第二戦に出場し2安打する捕手がいます。名古屋軍所属の藤原鉄之助です。藤原中央区月島生れの月島育ちです。藤原は帝京商で伝説のフォークボール投手杉下茂と全国制覇を目指していました。彼の父親は市役所勤めで給料六十五円の時、名古屋軍に契約金五百円を見せられ受け取ります。退学になりますが、戦争を挟み4球団でレギュラーとして足掛け12年間、闘志の捕手として活躍します。ある時は味方の投手をマウンドで殴り倒しました。破天荒な選手として人気がありました。

 野球よもやま話のこぼれ話②

野球殿堂博物館に展示された千葉茂の写真です。戦前戦後を通じて、ライバル川上と巨人軍の人気を二分した大スターです。主力選手で活躍して居た頃、水原茂監督は次代の監督は誰かを考えます。武士のように孤高の人で自分の打撃のみに集中する川上よりも誰からも好かれ親分肌の千葉を相談相手としていました。水原と距離があると川上は思っていますが、SFシールズのモデストキャンプに招待される選手に、水原千葉ではなく川上を推薦したことを知ります。そして現地で監督が絶対であることとチームプレーの大切さを目の当たりにして帰国します。一転してチームプレーの話をする川上水原は信頼を置くようになりました。水原は宿命のライバルがいました。高松商業出身で慶應義塾に入学します。同じ県内高松中出身のライバル三原修とは早稲田大でしのぎを削ります。プロ入り後三原は巨人の監督の座を水原に奪われた形で当時田舎チームと言われた西鉄の監督になります。そして日本シリーズで水原巨人を破ります。千葉は尊敬する先輩の三原を思ったのでしょうか、チームの愛称を自分のニックネーム猛牛(バッファロー)に変えてまで招聘してくれた近鉄の監督になり捲土重来を図りますが弱体のまま退任しました。

元プロ野球選手で10年選手バッジをもらった選手は野球場に入場できます。が超有名選手は顔パスで通っていました。中央区野球よもやま話で高級なシャツをはみ出して着ていたり有名な靴の踵を潰して履いていたことは書きました。千葉は選手当時もキャンプに向かう汽車で今のグリーン車に乗ろうとして拒否されたそうです。昭和50年代の川崎球場で顔パスで入ろうとしてバイト学生に止められます。仕方なく千葉茂だと名乗ったけれどそんなわけがないと拒否された場面に青田昇が出くわしました。はみ出たシャツはイタリー製のマドン、踵を潰した靴は本場のマドラスだったそうです。そういうおしゃれ感覚のようでした。

 野球よもやま話のこぼれ話②

今年の9月末オープン予定と書いてある改装工事中のつきじ田村です。日本料理の名店です。

千葉が出て行き川上が引退したジャイアンツは三原西鉄に負けた後も南海に負け、セリーグの大洋に移った三原にまたもや優勝されます。悔しさいっぱいの水原は年末につきじ田村に呼び出されます。球団幹部からその場で監督解任を告げられた水原は「考えさせてくれ」と答えて店を出ますが、退出の30分後川上が入っていったそうです。ジャイアンツはつきじ田村をよく利用していたようです。監督交代の舞台が中央区の料亭でした。

 

 野球よもやま話のこぼれ話②

千葉が通った銀座スイスです。せっかちな千葉がカレーライスにカツを乗っけてくれと注文した話は以前書きました。カツカレー発祥のお店として有名です。

すっとこどっこいが中央エフエムのHello!RADIO CITYにラジオ出演した放送当日、直前のコーナーに出演していたのが銀座スイスの藤原社長でした。カツカレーの日のことを話されていました。1月22日がカレーの日ならばカツカレーの日があってもいいのではないかと日本記念日協会に申請します。千葉が注文をした日(巨人・阪神戦の試合前)ではなく、銀座スイスの創業日だそうです。昭和24年に発売したとき、銀行員の初任給が¥3、000の時代でカツカレーは特別メニュー品で値段は¥180だったそうです。

すっとこどっこいも大好物なのでメニュー名”千葉さんのカツカレー”をよく食べます。ボリューム満点と思いますが千葉は2皿をペロっと平らげたそうです。

カツと勝つを掛けたのでしょうか

 【カツカレーは 勝利の味がする】

店内に飾ってある千葉のサイン色紙の言葉です。

 

中央区 野球のよもやま話

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=3487

野球のよもやま話のこぼれ話①

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=4018

 

参考文献

鈴木惣太郎 ”不滅の大投手 沢村栄治”   千葉茂 ”猛牛一代の譜” 

太田俊明 ”沢村栄治 裏切られたエース”  ロバートKフィッツ ”大戦前夜のベーブルース”  

早坂 隆 ”戦場に散った野球人たち”    中川右典 ”プロ野球「経営」全史”

鈴木 明 ”日本プロ野球復活の日”     青田 昇 ”サムライ達のプロ野球”  

辺見じゅん ”大下弘 虹の生涯”      報知グラフ ”巨人軍栄光の40年”