交通信号機

8月20日に情報メッセージの出るエレベーターに乗ったら 今日は交通信号設置記念日” と画面に映し出されていました。

全く知らなかったのでスマートフォンで調べたら、1931年(昭和6)の8月20日に京橋交差点銀座の尾張町交差点など34か所で三色灯信号機が設置されたことからこの日を交通信号設置記念日としたとありました。

交通信号の日と言われることもあるようです。

 

大正時代に上野広小路に ”止レ” と ”進メ” と書かれた板を警察官が手動で操作する信号が試されとそうです。ただ警察官による交通整理の方が評判が良く、試行錯誤を重ねたようです。

自動信号機の設置は1930年3月に日比谷交差点に置かれたものが最初です。交差点の真ん中に置く中央柱式と呼ばれるアメリカ製のものです。この信号機を日本初とする向きもあります。現在のものとは違い赤や緑の後に黄色も同時に点灯していたタイプのようです。文字や交通整理しか馴染みの無いこの時期、運転者や歩行者は怖かったのではないでしょうか。

 交通信号機

そして現在の信号に近い三色灯信号機が1931年8月20日に設置されこの日が記念日となります。34ヵ所の交差点の中で華やかな場所と言えばやっぱり銀座4丁目交差点ですね。尾張町交差点は当時の銀座4丁目と尾張町の間の交差点で、今の晴海通りと中央通りが交差する銀座4丁目交差点です。尾張町の町名は信号設置の前年に廃止され銀座5丁目となりました。交差点はそのまま尾張町交差点と呼ばれていたようです。

明治天皇が築地にあった海軍兵学校や海軍大学校の卒業式臨席のために行幸した、後のみゆき通り(御幸通り)のほうが明治大正期のメインストリートだったとする方もおりますが、大正期に描かれた銀座の絵や写された写真は現在の晴海通りや中央通りを中心で捉えて描写されています。服部時計店の時計塔やショーウィンドウに礼服や燕尾服を飾った山崎高等洋服店が向かい合った華やかな場所であったのは間違いありません。ただ関東大震災で時計塔は斜めになってしまい取り壊されます。山崎高等洋品店も焼失し再建されることはありませんでした。服部時計店が再建されたのは1932年の6月で、山崎高等洋品店銀座三越となってこの年の4月にオープンします。信号機の方が先に置かれました。

信号の色が変わる度にベルが鳴り音でも知らせる仕組みだったそうです。

 交通信号機

信号の色は赤・・黄色と言いますね。進めはどう見ても緑です。英語では RED・GREEN・YELLOW です。

一説によると信号機設置を記事にした新聞がと表現して定着したとのこと。色の三原色が赤青黄色だからと言う人もいます。確かにプリンターのインクカートリッジはマゼンタ(赤)シアン(青)イエロー(黄)ですね。また日本人は緑を青と表現する傾向がありますね。野口五郎の最初のヒット曲は”青いリンゴ”ですが実際は薄い緑ですよね。青果市場は緑の物が圧倒的に多いと思います。まあ定着しているので国際的にどうとかこうとかはいいような気がします。

ちなみにイギリスでは黄色信号はYELLOWでは無く AMBER と言うことも多いそうです。AMBERは琥珀色。朝ドラのあまちゃんで ”べんさん” が掘り続けて、磨き続けている琥珀の色です。 

 交通信号機

信号の話のついでに。

今はLED使用に変わりました。以前の電球式の時代の歩行者用信号機は赤い四角の中に白い人型がある信号でした。LEDに変わってからは人型そのものが光る信号になりました。人型を目立たすために人型そのものを大きくしたようです。以前よりかなり太りました。

止まれを目立たせる為に、歩行者用信号は赤が上です。道路上は、日本は左車線通行なので、三色灯信号機の道路中央に近い右側が赤です。

 交通信号機

新川亀島橋の東側にある信号機です。フードと言うのでしょうか、ひさしがとても長い信号機です。NHKの番組で紹介されたと ”はじめ” さんのブログに詳細が書かれています。

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=4056

 

すっとこどっこいは仕事でよくこの交差点を通りました。日本一かどうかは分かりませんが、長さが凄いとは思っていました。斜めからの信号を直進車が誤認しないようにが理由のようです。近くで見ると長さを実感します。

 交通信号機

ついでにもう一つ。

”銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機” と書かれたプレートのある浜離宮前踏切です。住所は銀座8丁目です。

旧国鉄汐留貨物駅から築地市場へ向かう通称東京市場線の踏切です。1931(昭和6)年から1987(昭和62)年まで使用されたと説明版に書いてあります。最盛期には一日に150両もの貨物が通過したとも。汐留駅の廃止と共に引き込み線も撤去されますが、銀座には珍しい鉄道踏切信号機として地元民の要望で保存されたそうです。

すっとこどっこいが小学校時代、宿題が中央区の駅を調べることでした。当時は八丁堀馬喰町東日本橋も無い頃です。国鉄は東京駅しかない(正しくは千代田区ですね)と思っていたら横で見ていた父親が築地市場駅があると言いました。知らないと言うと仕事でよく踏切を通るんだと言っていたのを思い出します。