防災訓練

2023年の9月1日は関東大震災から100年の節目にあたる年でした。

1923(大正12)年の9月1日の午前11時58分に相模湾北西部を震源とする海溝型地震と言われます。

すっとこどっこいの曾祖父は大正時代には京橋區の新栄町で材木屋を営んでいます。大正9年頃の材木置き場の写真です。向って左側の家の2階で家族と店員は昼食の為集まっていたようです。地震が起きて木造家の柱が折れ2階が下に落ちます。1階にも材木や丸太が立てかけて置いてあったので、そのまま材木の上に落ちて地震そのものによる人的被害は最小限でした。その後火に囲まれて避難します。すっとこどっこいの曾祖母は臨月で、その二日後に避難先で出産しました。町中焼野原になったそうです。

 防災訓練

今年の9月10日に中央小学校防災拠点運営委員会 の主催で防災訓練が行われました。

京橋消防署築地警察署に協力いただきました。

対象地域は入船一丁目入船二丁目湊一丁目湊二丁目 です。

各町会の集合場所に集まってから鉄砲洲児童公園へ向かいました。

その後各町会別に4組に分かれて各コーナーを回りました。

 

その間にも、各町会の担当者が高齢者の独り住まいの方を訪ね、安否確認の訓練もしていました。

 防災訓練

ペット同行避難訓練のパネル展示と説明を受けました。上の写真です。

中央小学校防災拠点では、ゲージで飼える犬とか猫や小動物ですが、避難場所やペット用防災用品があります。

 

下の写真は簡易トイレの組立てをした所です。

周りにテントを張って個室にします。テントの一番下の部分をテントポールに差し込むことで風でめくれることを防げます。

 防災訓練

中央小学校の避難スペースは体育館です。

個人スペースはシート1枚分ほどです。空気を入れるクッションと段ボールで寝るかたちになります。

個室対応が必要な方の場合はテントを使ってスペースを確保します。

 

下の写真は AED を使っての応急処置訓練です。

入船と湊の AED の設置場所の一覧(ちょっと古かったかな)を見せてもらいました。

 防災訓練

上の写真は煙体験ハウスです。

中に入って煙を充満してもらうと何も見えなくなり、右左など方向感覚も無くなります。

体験したくない貴重な体験でした。

 

下の写真はマンション等、隣接部屋へ避難するために境界位置に設置されているボードの蹴破り体験で硬さを確認出来るコーナーです。当然非常時は思い切って蹴るとは思いますが。

 

 防災訓練

上の写真は初期消火訓練のスペースです。

一瞬にして粉末が広がりました。冷静でいることが大事でしょうね。

 

下は起震車体験ができる車です。

何度も乗ったことがありますが、いつも気持ちのいいものではありません。実体験はしたくありませんが、いつかはくると覚悟はしなければならないでしょう。

 防災訓練

炊き出しのカレーの試食コーナーです。

水と共に個人としても食料は常備しておきたい物です。

 

下はミニパトカーの乗車体験です。

他にも白バイ乗車体験防火衣の着用体験コーナーもありました。

こどもたちも大勢参加していました。

 防災訓練

1972年1月20日に日付が変わった頃。一時間ほどの間に築地明石町入船二丁目と放火と思われる連続火災がおきます。そして数分後、すっとこどっこいの実家の隣にも火が襲ってきました。4ヵ所目の火事です。午前二時過ぎに祖父に起こされ寝ぼけ眼で窓の外を見ると一面オレンジ色でした。写真は燃え残ったすっとこどっこいの実家です。この火事を機に自分達で夜警をしようとの声が上がり、町会に青年部が結成され現在も一月には夜警が行われています。

 防災訓練

江戸庶民は度重なる大火に悩まされ、火除地として広小路が上野や浅草に設置されました。中央区区内にも両国広小路が今の東日本橋辺りに作られます。現在は両国橋の西側に両国広小路記念碑が設置されています。

関東大震災の後は東京の復興事業の一つとして広い道路が作られました。

上記写真の昭和通りは現在アンダーパスも含めて10車線ある広い道路で、火事の類焼を止める役目を担っています。震災前、中央区内もほとんどが密集した木造家屋でした。

 

避難所に準備されている物資や避難スペースは限りがあります。基本的に高層マンションの住民の人達や仕事中で帰宅困難者となった人の人数を計算してはいません。

すっとこどっこいが東日本大震災でボランティア活動に行った時、何度も余震がありました。また津波が襲ってくる可能性もあります。日々の活動リーダーからは ”津波は てんでんこ” と繰り返し聞かされました。

災害は可能な限り各自で備え、助け合えることは出来る限り助け合いましょう。