『銀座』はどこまで?
銀座を一周してみましょう! ⑯
~ 采女橋・築地川采女橋公園・新橋演舞場 ~
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
「『銀座』はどこまで? 銀座を一周してみましょう!」シリーズ、第16回です。
今回は「采女橋(うねめばし)」、「築地川采女橋公園」、「新橋演舞場」を通りましたので、ご紹介させていただきます。
また「新ばし金田中(かねたなか)」につきましても触れていきます。
采女橋(うねめばし)
(冒頭画像も采女橋です。)
(橋のたもとに以下のような説明板が掲げられています。)
采女橋
このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。
橋名の由来はここからきたものと思われます。
采女が原は、明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。
震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。
また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。
区では平成2年度に、幻のホテル“築地ホテル館”(明治元年、近代的な洋式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが、明治5年焼失)と“銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。
橋梁の諸元
形式 2径間鉄筋コンクリートアーチ橋
橋長 42.0m
有効幅員 15.0m(車道9.0m 歩道3.0m×2)
着工 昭和4年9月
竣工 昭和5年10月
施工者 東京市
築地川采女橋公園
銀座6-28-1です。
采女橋と新橋演舞場に隣接しています公園です。
小さな公園ですが、意外と人の多いスポットです。
時刻によっては近隣のビルでお仕事をするお勤めの方などのランチと憩いの場として、またある時は画像のように新橋演舞場の開館待ちの場として利用されています。
果樹とハーブの見本園、築地川采女橋公園内にあります。
果樹とハーブの見本園につきましては、『カリンやセージも育つ「果樹とハーブの見本園」』をご覧ください。
2022年7月13日に Hanes さんが書かれています。
新橋演舞場
ー 新橋芸者の技芸向上と披露の場として設立 ー
銀座6-18-2
京阪の歌舞練場(かぶれんじょう)や演舞場を手本に、新橋芸者の技芸向上とこれを披露する場として大正14年(1925年)に開場した。
毎年初夏には新橋芸者による「東(あずま)をどり」の公演を行う。
このほか歌舞伎や新派を始め、幅広いジャンルの演劇の公演を行っている。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
こちらの画像は1つ前の画像とは別の日の撮影です。
この日はアイドル系演者中心の舞台でしたので、若い女性の入場列が連なっていました。
東をどり
ー 一流の新橋芸者による粋な踊りを鑑賞 ー
新橋芸者の技芸向上を目的に建設された新橋演舞場を舞台に、新橋芸者の一流どころが粋で華やかな踊りを披露する。
本来なら、新橋の高級料亭のお座敷でしか見ることのできない芸者の踊りと地方(じがた:唄・三味線・笛など)を鑑賞できる。
また、料亭の味が楽しめる絶好の機会。
日時/ 5月中旬~下旬頃
場所/ 新橋演舞場
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
中央区観光検定の第9回(2017年)では、次のような設問がありました。
「毎年5月中旬ごろ、銀座6丁目の新橋演舞場では、新橋芸者の一流どころが粋で華やかな踊りを披露するイベントが開催されます。
このイベントの名称は次のうちどれでしょう。」
・・・4択の正解は 東をどり でした。
また、第10回(2018年)では以下のような設問がありました。
『例年5月中旬ごろ、銀座六丁目の新橋演舞場では「東をどり」が開催されます。
新橋芸者の一流どころが華やかな踊りを披露するイベントですが、唄や三味線、笛などの鳴り物を鑑賞できるのも楽しみのひとつです。
このように、唄や三味線、笛などを担当する人のことを専門用語で何と呼ぶでしょう。』
・・・4択の正解は 地方(じがた) です。
新ばし金田中(かねたなか)
新橋花柳界に大正創業の金田中、その新ばし金田中、銀座7-18-17、有名老舗料亭です。
新橋演舞場の隣りです。
書院から数寄までの趣きのある部屋、床には軸と花、香を焚いてお迎えされる日本料理、至福でしょうね。
ー 花柳界 新橋の歴史? 家康の土木工事でできた土地 ー
家康が秀吉に国替えされて、江戸入りするのは四百数十年前のこと。
江という字は揚子江、黒龍江など大河を表します。
戸は扉で江戸とは大河の扉という云う意味なのです。
今は多摩川、墨田川(隅田川)、荒川、江戸川と四つの一級河川が東京湾に注ぎますが、家康の頃には加えて関東一の大河、利根川までが江戸湾に注ぎました。
つまり、雨が多く降るとすぐ水浸しになった当時の江戸、人の数は多くはない処でした。
江戸に移った家康は大きな土木工事に取り掛かります。
利根川の流れを変えるような計画もこの時のもの、因みに三代家光の時代に完成しています。
太田道灌が築城した江戸城も日比谷が潮入り岬ですから、この頃は海域と云う趣きだったのでしょう。
墨田川の下流は当時、大川と呼ばれ、その中州が今の京橋、銀座の多くは海の底でした。
家康の埋立てにより出来た土地が銀座。
埋めた土は神田山と云うそこそこの山を削って運んだそうです。
どこかと云えば今の神田駿河台。
直参直参の家来、駿河衆が削って平らにしたと地名が告げます。
余談ですが、しばらく住んだ六本木の裏手は旧町名が三河台、きっと家来の三河衆が削ったのでしょう。
戦国と云う命の遣り取りをした時代は築城の必要から土木工事をここまで進化させたと感慨深く思うばかりです。
後に新橋花柳界が花開く土地は、こうして生まれました。
~ 金田中 ホームページ より ~
「采女橋」は、上の地図では中央やや右上の赤丸で示しました。
「築地川采女橋公園」は、采女橋の右下のターコイズ色の丸で囲まれたところです。
「新橋演舞場」は、築地川采女橋公園の右上、采女橋の右横に位置するオレンジ色の丸です。
「新ばし金田中」は、新橋演舞場の右の灰色の星形の地点にあります。
今回は銀座全図の右、黄色のラインを進みました。