日本橋と江戸橋の間で教科書にも載る「あの事件」が起きていた!
▲『江戸名所図会 7巻』国立国会図書館デジタルアーカイブスより抜粋
どうも、苔です。
中央区はその名の通り江戸時代に江戸の中心地とした賑わった地。諸国から様々な物資を集めてくるために川や堀などの水運が発展し、江戸中に張り巡らされた川沿いには物資を荷揚げするための「河岸」が設けられました。
特に日本橋北詰にあった「魚河岸」は、17世紀のはじめから昭和10年(1935年)の築地市場への移転に至るまで江戸の人々の食生活を支えた場所として有名です。
当時は荷揚げする品目ごとに河岸を設けることが多かったので、例えば京橋の袂には竹を集積する「竹河岸」、野菜を荷揚げした「大根河岸」など、どのようなものを荷揚げしていたのかが名前から推測することができるものもあります。
ふと、日本橋川には魚河岸の他にどんな河岸があったのだろうかと気になったので、以前手に入れた中央区沿革図集を眺めてみることにしました。
日本橋と江戸橋の間にある河岸
中央区沿革図集に掲載されている改訂『江戸之下町復元図』は、嘉永年間(1848〜1851年)頃の江戸下町の様子を復元した図です。
この資料によると、日本橋から江戸橋まで西側から、「芝河岸」「魚河岸」「中河岸」「地引河岸」「高間河岸」と並んでいます。
調べてみると、
・芝河岸:芝の漁民が開いた魚市場
・地引河岸:地引網漁で取れた魚(イワシ、ヒラメ、カレイなど)の荷揚げを行っていた河岸
のようで、中河岸は海産物を扱う河岸の真ん中に設置されたためそのように呼ばれていたようです。
では、残る「高間河岸」はと言うと、他の河岸とはちょっと異なる事情があるみたいです。
ここは江戸初めての「打ちこわし」現場
▲「幕末江戸市中騒動図」東京国立博物館より抜粋
(慶応2年(1866年)の打ちこわしの様子を描いたもの)
皆さんは「高間伝兵衛」という人物をご存知でしょうか?
上総国周淮郡周南村(現在の千葉県君津市)で年貢などを担保にお金の貸付などを行っていた伝兵衛は、享保年間初期(1716年頃)に江戸に進出。日本橋伊勢町に24棟の米蔵を設け、その近くの本船町に「高間河岸」を設けて米の荷揚げを行っていました。
享保年間は「米将軍」の異名を持つ、第8代将軍・徳川吉宗の時代。米の価格の統制に苦心していた幕府は高間伝兵衛の商才に目をつけ、享保15年(1730年)に町奉行である大岡忠相のもとで米価の調整を行う「米方役」に任命します。
そんな中、享保17年(1732年)に西日本で「享保の大飢饉」が発生。幕府は救援策として、東国の米や前年に買付けしていた米を西国に送ったため、江戸でも米不足が発生しました。
米が不足すると起こるのが米の高騰。この対策として、伝兵衛は備蓄していた米を市中に安値で売り出すことを提案し、幕府の許可を得ます。
ところが町人の間では「米が高騰しているのは、高間伝兵衛が米を買い占めているからだ」と誤解され、享保18年(1733年)の1月に高間伝兵衛の本船町の店(たな)を1700名もの町人が襲撃する事件が起きました。
当時高間一家は上総にいたため直接危害を被ることはなかったですが、家にあった家財道具や米俵は砕かれて、目の前の川に投げ込まれてしまいました。
これが教科書にも載る「享保の打ちこわし」です。
「高間騒動」とも呼ばれるこの出来事は、江戸時代で最初の打ちこわしとも言われていて、当時の江戸町民のパワーを象徴する出来事として、歴史の1ページに刻まれています。
高間河岸の今
今架橋されている江戸橋は昭和2年(1927年)の昭和通り開通に伴い架橋されたもので、北詰はかつての地引河岸と高間河岸の間くらいの位置に架かっています。
かつて高間河岸と呼ばれた場所は現在の江戸橋の北東に位置しますが、当時を偲ぶものは特にありません。
とはいえ、ここに1700名もの町民が集結して騒動を起こしたのですから、その様子を想像するだけでも町民の怒号と喧騒が聞こえてきそうです。