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賀茂真淵の縣居(あがたい)

国学って…

国学って… 賀茂真淵の縣居(あがたい)

明治座の近く清州橋通りのドラッグストアの前にある賀茂真淵縣居の跡の説明板。賀茂真淵。神道に詳しい方はよくご存じかもしれません。しかし、日本史で国学の人とかって勉強したけれど詳しくは覚えてない…国学って第二次世界大戦の時の国粋主義のもとになってるんじゃなかったっけ。危険な感じだけど大丈夫かな。と思って通り過ぎてしまう人も中にはいるかもしれません。私はそう思っていました。江戸時代の人は賀茂真淵や国学をどう思っていたのでしょうか。

江戸町民に親しまれた国学

式亭三馬浮世風呂は江戸町民に親しまれた滑稽本です。(浮世風呂については→過去のブログ「式亭三馬の江戸の水」参考にどうぞ)その浮世風呂第三編巻之下で本居宣長(賀茂真淵の弟子)を信仰していてオホホと笑うお上品そうな二人の女性の銭湯での会話が出てきます。二人の名前はかも子さんとけり子さん。かも、けりは詠嘆の終助詞ですね。古典好きを茶化してつけた名前でしょう。『宇都保物語』を読むのが三日坊主になっているかも子さん。『源氏物語』を読むのに賀茂真淵の新訳本居宣長の『玉の小櫛』をもとに書き入れをしているけれどなかなか進まないけり子さん。次々と古典の書物の名前がでてきます。賀茂真淵の門人の加藤千陰の『うけらが花』もでてくるなど知識のひけらかし合戦の様相。しかし、けり子さんが大真面目に詠んだへんてこな和歌「うまじものあべ川もちはあさもよし きな粉まぶして昼食もよし」をかも子さんが笑いもせずほめたたえて終わるという話です。

古典の知識が乏しい私がこの話を読んで面白いと思ったのは最後のおかしな和歌に二人が笑いもせずお互いインテリだと思っているようなところだけでした。しかし、おそらく江戸の町人は国学や古典を、さもわかった風な人がいることを笑いとばしながらも次々と出てくる古典の知識があるので面白かったのではないでしょうか。滑稽本で茶化されるくらいには国学が親しまれていたことがわかるエピソードだと思います。

 

また国学と同時期に狂歌が流行しました。狂歌は和歌と同じ五七五七七の韻文ですが、和歌が風情や心情を重視するのに対して狂歌は滑稽を主として世の中を風刺するものです。狂歌を作るには和歌や古典の教養がなくてはなりません。そのうえで笑いや風刺をいれます。本居宣長の養子である大平の娘婿の本居内遠国学者ですが若い時は時曳速躬(じびきのはやみ)という狂歌師でもありました。また古語辞典『雅言葉』源氏物語の注釈書を書いた石川雅望宿屋飯盛という狂歌師でもありました。面白い狂歌名ですが小伝馬町の旅宿の息子だったからだそうです。国学も狂歌も両方やっている人もいたようです。江戸の人たちは面白おかしい狂歌を楽しむにあたり国学や和歌の知識は自然と身についていたのではないでしょうか。

 

そして江戸時代後期の『江戸名所図会』にも挿絵はありませんが「賀茂真淵翁閑居の地」として説明があります。江戸の名所旧跡を網羅したガイドブックである『江戸名所図会』にも載っているということは当時もこの地を訪ねて来る人もいたでしょう。

難しそうな国学や和歌が江戸の町人たちに親しまれていたのは意外でした。

国学の成り立ち

江戸幕府は幕藩体制と秩序の維持のため、それにふさわしい学問として儒学、なかでも朱子学官学としました。朱子学は天地に上下の区別があるのと同じように身分の上下も定められているもの(上下定分の理)とし、己をつつしみつつ私利私欲や感情を抑えて身分秩序にあった生き方を心掛ける(存心持敬)必要性を説きました。

国学はその朱子学を批判し、古典を学ぶことで仏教や儒教が伝来する前の日本人古来の国民性や文化を見出そうとする学問です。賀茂真淵は万葉集の和歌を学ぶことで素朴でおおらかな精神高く直き心)と、それが和歌に表れた男性的な(ますらおぶり)に理想的な精神を見出し、その日本人固有の精神を取り戻すべきであるとしました。賀茂真淵の著書には『万葉考』万葉集の注釈書『冠辞考』枕詞の研究などがあります。

朱子学が上からのお仕着せの学問だったのに対し国学はそれに対抗し民間から発生してきた学問といえるでしょう。なので江戸町民にも親しまれたのだと思います。

賀茂真淵縣居 穴倉はなんのために?

賀茂真淵縣居 穴倉はなんのために? 賀茂真淵の縣居(あがたい)

賀茂真淵縣居の跡説明板の図

賀茂真淵は実家が浜松岡部新宮加茂神社の神職だったのでそれにちなんで姓を賀茂、所在地の敷智郡(ふちぐん)から名を真淵と称しました。

真淵は若いころから国学を学び京都で荷田春満に教えを受けました。寛延3年(1750)に田安宗武(徳川吉宗の第2子)に仕えるため江戸に下り、隠居後、明和元年(1764)に現在の浜町にあった五百石の旗本細田家から百坪の土地を借り縣居と称する簡素な家を建てました。この細田家の長男が喜多川歌麿と美人浮世絵人気を二分したと言われる浮世絵師鳥文斎栄之でした。賀茂真淵が越して来た時鳥文斎栄之はまだ小さかったのですが賀茂真淵のおおらかな国学は武家の長男でありながら浮世絵師になった彼になんらかの影響は与えたかもしれません。賀茂真淵は68歳から73歳で死去するまでここに住みました。

縣居とは庭を田舎のように作っている様子をあらわします。上の写真が縣居の見取り図です。四畳半が主室門人たちが集まって歌会などをするときは狭すぎるので南と東に広く椽座敷(えんざしき)をとってあり間の建具を取り払うと四畳半と椽座敷を一室として使えるようになっていました。

庭は数十坪月光に隈なく照らされ西は少し土をもりあげて周りに若松を植えて穴倉をつくっていました。上の写真の庭にも穴倉が描かれていますね。穴倉とは!?なぜ?これは大火のための用意だそうです。火事の時に大切なものを収納して火から守ったのでしょう。自分の著作もいれたのでしょうか?火事の多かった江戸の町らしいですね。穴倉の東の方は野辺や畑のように作ってあり青葉もあれば野蒜(のびる)も植えられていました。ふくらの苗木を箱根山から掘らせてきたのが2本と小桜もあったそうです。

この縣居でおこなわれた9月13日の観月の催しで詠まれた和歌があります。

秋の夜のほがらほがらと天の原てる月影に雁なきわたる(訳:秋の夜の晴れ晴れと大空に輝く月明りの中、雁が鳴いて渡る)

野分してあがたの宿は荒れにけり月見に来よと誰につげまし(訳:野分が吹いて田舎の我が家は荒れてしまった。月を見においでよと、もし告げるなら誰に告げようか)

真淵の門人は340人ほど。その3分の1が女性でした。何人がこの歌会に参加したのかはわかりませんんが性別関係なく心から好きな歌を詠むのびのびした歌会を想像しました。

第二次大戦中の国学

第二次大戦中の国学 賀茂真淵の縣居(あがたい)

『初等科修身 四 松坂の一夜』昭和18年 国立国会図書館デジタル

私のように国学の国粋主義的な考えが第二次世界大戦につながったのではと思っている人がいるのは次のようなことが原因だと思います。

賀茂真淵の弟子本居宣長の自賛の歌

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」

これは漢籍を学んで中国の国風や文化に心酔する漢心(からごころ)に対して大和心はどういうものかと尋ねられたら宣長は日本人である自身は朝日に照り輝く山桜の花の美しさを知り、その麗しさに感動する。と答えるという自分自身の心を詠んだ歌です。

しかし戦争中は日本国民全体の武士道精神を象徴する歌と曲解されました。神風特攻隊の名称敷島隊大和隊朝日隊山桜隊もこの歌から名付けられました。戦死を美化するために使われてしまいました。

 

また、戦前、戦中に教育を受けた人はみな知っているという「松坂の一夜」の話。(上の写真は戦時中の修身の教科書)皆様はご存じでしょうか。私は知りませんでした。要約すると、「松坂に住んでいた本居宣長はかねてから賀茂真淵を尊敬していていました。ある時宣長は伊勢参りに行く真淵が松坂を通り過ぎたと聞く。急いで追いかけたが見つけることはできなかった。しかし、念願かない伊勢の帰りの真淵に会うことができた。真淵が逗留した宿のほの暗い行燈のもとで学問に対する心構え、基礎を重視する大切さを教わり、宣長は古事記の注釈の構想を真淵に伝えました。真淵は自分は万葉集の研究で年をとってしまい古事記まで手が届かなかった。あなたならできると古事記の研究を本居に託した。二人は師弟関係を結びその後は手紙でやりとりをしましたが会ったのはこれ一度きり。一期一会の夜だった。本居はその後35年をかけ古事記の研究を完成させた。」

この話は教科書に採用されたときは「一期一会の出会い」→「1回1回の授業の大切さ」 「完成まで35年という歳月」→「学校を終えた後も勤勉に努力を続ける大切さ」を教える教材だったそうです。しかし、学問の基礎を築いた功績が大日本帝国を築いた業績とされ、戦前、戦中の時局に担ぎ上げられもてはやされました。戦後はそれまでの教育も思想もすべて否定されました。日本の教育が悪かったとして「松坂の一夜」も教科書から削除されたそうです。

 

【賀茂真淵縣居の跡の説明版】日本橋浜町1丁目 清州橋通り  

【最寄り駅】都営地下鉄新宿線 浜町駅

【参考文献】

『賀茂真淵』 三枝康高 吉川弘文館

『真淵と宣長ー松坂の一夜の史実と真実ー』 田中康二 中公叢書

『人物日本の歴史・日本を変えた53人』 高野尚好 学研

『やさしく読む 国学』 中澤伸弘 戎光祥出版

『鳥文斎栄之展 図録』 千葉市美術館

『江戸名所図会』 ちくま学芸文庫