【遠足シリーズ第64弾】吉田松陰の足跡を辿って(後編)
こんにちは、Hanes(ハネス)です。
しばらく間が空いてしまいましたが、今回は山口県で見つけた吉田松陰および中央区とのつながりをご紹介する記事の後半です!(前編はこちらから)
中央区観光検定対策もかねてぜひご覧ください。
上の写真を撮影したのは、萩市にある野山の獄。
遡ること嘉永7年(1854年)。松蔭は、黒船艦隊が再来航した際に密航を企てるも失敗し、小伝馬町の牢屋敷に送られました。
そしてこの野山の獄に送還された後、生家預かりとなりました。
現地の案内板には、野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した旨、松蔭はここで仲間の囚人を教化するという前例のない教育を行った旨が記されています。
松陰が2度にわたり収容された伝馬町牢屋敷は中央区内にあり、現在十思公園、十思スクエア、大安楽寺、身延別院のあるエリアに位置し、市ヶ谷囚獄の完成によって廃止される明治8年(1875年)まで機能していました。
収容人数が350人~700人と幕府最大規模の牢屋で、牢は性別・身分・罪種などによって区分されていました。
向かい側の大安楽寺の塀には、「江戸伝馬町処刑場跡」の碑があり、大安楽寺縁起の看板では、安政の大獄に連座してこの地に送られ、安政6年(1859年)に死罪を言い渡され、処刑された松陰についても言及されています。
また、十思公園内の記念碑には、「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂」という彼の辞世の句が見られます。
そんな松蔭の墓は、萩市内なおかつ生誕地のすぐそばにあります。
今回こうして松蔭の人生を辿るようなスポットを巡ることで、動乱の時代に生を受け、29歳と若くしてこの世を去るも、勇敢で決断力・行動力のある彼の生き様をより身近に感じることができました。
松蔭の密航の企てにご興味のある方は、静岡県下田市にある関連スポットについてまとめた記事「【遠足シリーズ第40弾】吉田松陰密航の企てとその後」も合わせてご覧ください。
区内の吉田松陰関連スポット
十思公園
住所:中央区日本橋小伝馬町5-2
伝馬町牢屋敷跡
住所:中央区日本橋小伝馬町3・4・5
吉田松陰終焉之地
住所:中央区日本橋小伝馬町5-2
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