『尾上菊五郎』代々の襲名
歌舞伎座では、2025年5月と6月に尾上菊五郎さんと尾上菊之助さんの「襲名披露」が行われ、華やかな舞台が続いています。
襲名披露とは、歌舞伎役者が伝統ある名前を正式に引き継いで舞台に立つお披露目です。今回、5代目菊之助さんが8代目菊五郎を、その息子である丑之助(うしのすけ)さん6代目菊之助の名前を継ぎ、丑之助さんの祖父である7代目菊五郎さんもそろう親子三代の舞台が話題になっています。
また、最近公開された映画『国宝』でも、歌舞伎役者の襲名が大きなテーマになっており、歌舞伎の世界に興味がなかった人にも注目されています。
襲名は、今回のように親子間の世襲のケースも多いですが、そこにたどり着くまでの厳しい修行・努力が不可欠です。
そこで、『菊五郎』の大名跡がこれまでどのように受け継がれてきたのか、その軌跡を調べてみました。
『尾上菊五郎』の歴史と世代交代
初代菊五郎は1717年に京都の芝居茶屋の出方(世話係)の子として生まれ、13歳で菊五郎を名乗り、京都で初舞台を踏みました。その後、女形としてその名を広め、大坂で2代目市川團十郎と共演したことがきっかけで、その芸が認められて江戸に行き、大人気になりました。
今回、47歳で8代目菊五郎が誕生しましたが、各代が異なる年齢で襲名しています。
大きく分けると、10代で名跡を引き継いで芸を磨くパターン(初代、2代目、6代目)と、8代目と同様に、自身の芸を確立し十分経験を積んだ上で名跡を継ぐパターン(3代目、4代目、7代目)があります。
また、今回は7代目が菊五郎を名乗り続けるなかで、8代目が新たに菊五郎を襲名するという、これまでにない形になりました。これは「伝統を守りつつ、新しい試みも取り入れる」という菊五郎家の柔軟さの表れとも言えます。
市川團十郎家との深いつながり
尾上菊五郎家は、初代をはじめとして、歌舞伎界の名門、市川團十郎家と古くから関わりがありました。
江戸期には、3代目菊五郎と7代目團十郎が人気を二分し、脚本家鶴屋南北の作品で何度も共演し、お互いを高め合いました。
明治期のなか頃には、9代目團十郎、5代目菊五郎、初代左團次による「團菊左(だん・きく・さ)時代」という歌舞伎界の黄金期が到来し、それぞれの芸を競い合いました。
両家がライバルでありながら深いきずなを示す例として、実子誕生前に養子を迎えていた5代目菊五郎が、9代目團十郎に「菊五郎の名は実子に継がせたいが、家庭の事情で自分からは言い出せない。代わりに口添えしてほしい」と頼み、その翌年に菊五郎が亡くなってしまったため、團十郎が困りつつもその願いを叶えたという逸話が残っています。(『團菊以降』[伊原青々園著、青蛙房])
歌舞伎座2階ロビーにある9代目團十郎と5代目菊五郎の胸像。この明治期の名優の功績をたたえるため、昭和11(1936)年から 『團菊祭』が創設。戦後一時中断を経て、昭和33(1958)年に復活し、以降『團菊祭五月大歌舞伎』として続いている。
その後、9代目團十郎は6代目菊五郎の舞踊の師匠となり芸を仕込み、6代目菊五郎は「歌舞伎界で6代目と言えば菊五郎」と称されるまでになりました。
近年の世代交代と今後への期待
6代目菊五郎の追善興行(追悼公演)には11代目團十郎も出演し、両家の絆が続いていたことが分かります。
また、12代目團十郎と7代目菊五郎は幼なじみで、長年続く團菊祭を守ってきました。
さらに、現在の13代目團十郎も8代目・新菊五郎とは同じ1977年生まれの幼なじみで、今回の襲名披露に進んで協力し、5月公演『勧進帳(かんじんちょう)』の弁慶役で共演するなど、見事な舞台をみせています。
その子どもたち、6代目・新菊之助(11歳)と8代目市川新之助(12歳)も同じ2013年生まれ。5月公演『弁天娘女男白波(べんてんむすめ めおのしらなみ)』では、いとこの尾上真秀(まほろ、12歳)さん、中村梅枝(10歳)さんなどの同世代の役者と舞台に立ち、みな堂々たる演技を披露しました。
一方で、菊之助さんの襲名があまりに早いのでは、と心配する声もあります。
祖父の7代目菊五郎ご本人もかつて丑之助(うしのすけ)を名乗りましたが、その名前が嫌だったと明かし、「牛って、もそっとした感じで、子どもや孫に名乗らせる時も、ちょっとかわいそうだなと思った」と語っています。(『尾上菊五郎』[小玉祥子著 朝日新聞出版])。
孫かわいさも早めの襲名の一因かもしれません。もちろん、本人の努力あっての話ですが。
三世代そろっての襲名披露で、歌舞伎座は大いに盛り上がりました。
今後の若い役者たちの成長も楽しみです。
菊五郎一門の屋号である『音羽屋』の伝統を受け継ぎつつ、歌舞伎界に新風を吹き込む尾上菊五郎・菊之助さんのこれからに、さらに注目していきたいと思います。
オフィシャル