ヘアサロン大野グループ 代表 大野悦司さんインタビュー 前編
~ ヘアサロン ONO ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をショーアップして取材します、rosemary sea です。
ヘアサロン大野グループさんは「Hair Salon ONO」として日本橋を中心に東京・大阪・海外まで及ぶヘアサロンを展開されています。
日本橋には 艶出(つやだし)専科本店 と iki (いき)日本橋本店 がございます。
ここでヘアサロン大野グループ 代表 大野悦司(おおの えつじ)さんにインタビューさせていただいたものを掲載させていただきます。
今回はその前篇です。
それでは・・・
私は15歳のときに(親父の仕事の)跡を継ぐことを決めたんですよ。
私が34歳のときに親父が亡くなって、実際、跡を継いだんです。
継いでからもう37年、昭和60年からやってるんです。
全国講師会の会長、9期やりました。2代にわたってね。
ある人にね、床屋と理髪店の違いがわかりますか、って言ったら、同じじゃないのか?、って。
それは歴史が違うんですよ。
どこが違うんだ?と。
それは一言では言えないんですけど、その人が主催するセミナーでしゃべってくれ、と。
床屋と理髪店の違いというのは、理髪店は西洋の外科医だった、理髪外科医だった。
だから当然、衛生について、非常に高い見識を持っていないと、日本で流布していくのは衛生思想なんですね。
消毒に関する考え方を床屋さんやこれから理髪店を目指す人に一生懸命教えて、そして理髪の違いを床屋さんに向けて言っていた訳ですよ、理髪は床屋さんと違うんですよ、と。
こういうふうに衛生をちゃんとしなくちゃいけないんだよ、と。
紀元前から束髪をやっていたその人が、急に理髪師になる訳じゃなくて、やはり理髪の仕事を覚えながら衛生思想を覚えたから、床屋さんから少しずつ変化していった、あるいはもう最初から横浜でも習って、それで衛生思想を習って、そしてやっていた人と、徐々に変わってきたというのが大分違いがあると。
生まれは大田区。
15歳、慶応高校に入ったときに古河ビル、当時のね、(今はコレド室町2が建っているところ)うちの日本橋の本店が入っていたところ、昭和52年くらいになくなっちゃったんだけど、そこにうちの親父が店を出して、結構いい店を作ったんですよ。
そしたら古河ビルがね、大阪に古河ビルを作る、と。
古河不動産という不動産屋ですからね、古河興業、古河市兵衛さんのね。
古河ビルが大阪に出る、っていうんで、うちの親父がね、大野さん大阪に出店して欲しい、って言われたんですよ。
その頃新幹線が動いていないんです。
うち、その当時蒲田と日本橋しかないのに、大阪に店出しますか?どう考えても出さないでしょ。
親父は言われたからその気になっちゃって。
出そう、って言うつもりだったけど、もちろんお袋が大反対してね、冗談じゃない、と。
そんなところに店出してどうするんだ、と。
新幹線走ってないんですよ、ドアツードアで特急で行ってもね、8時間か9時間かかってる、一番速いやつでね、東京からね。
だからお袋が反対したんですよ。
私が引っ張り出されてね、大阪見に行こうってことになったんですよ、大阪の予定地を。
僕は詳しく聞かされてなかったんだけど、大阪のグランドホテルに泊まってね。
渡辺橋っていう大阪と中之島をつなぐ橋があってね、そこのたもとにグランドホテルっていうのがあってね、今はリーガロイヤルだけどね。
2泊ぐらいしてね、めしをご馳走になって。
当時の特急こだまっていうのに乗ってね、最高じゃないですか、特急なんて乗ったことないんだから、乗ってみるもんだ、と思ってたからね。
・・・まあ、マーケティングですな。
そしたら親父からね、初めてしゃぶしゃぶを食べさせてもらってね、ホテルに泊まったりして。
僕としては最高の体験をさせてもらってるでしょ。
最後にね、ここの場所に店出せって言われたんだけど、お前はどう思うかって、親父が聞いてきたの。
僕はほら、ご馳走になっているからね、反対できないでしょ。
だから、やったらいいですよって言ったんですよ。
そしたら親父が烈火のごとく怒ってね。
俺はそんな答えを聞くためにお前をここに呼んだんじゃない、何で、僕も跡を継ぐから、親父さんやりましょう、って言わないんだ、って。
そんなこと言われてもね、困っちゃって、困っちゃったんだけど僕は思ったんだ、その時に。
東京に2店舗しかないお店が、なぜ出したいと思うのか、大阪に、と。
親父は日本一の理容店になりたかったんだなあ、と。なりたいんだろう、と。親父のロマンを感じたんですよ。
だから、僕も日本一の理容店に向かうなら、と思ってね、跡を継ぎますよ、って。
・・・そういうことでスタートしてる。
それから慶応高校行って、行きながら理容師の技術の修行に入って、そして大学のときに免状を取って、大学を卒業した年はね、西武の堤清二さんがお客さんだったんですけど、もう亡くなっちゃったけどね。
その清二さんがね、大野さん、うちは今度静岡に本格的な百貨店を作るんだけど、ついては、静岡の人はね、何やかんや言っても静岡の金持ちは全部東京に買いに来ちゃう、三越とかね。
何とか金持ちを静岡に留めたい、と。
土日になるといなくなっちゃうんだ、だから、大野さんのような東京の本格的なサービスの店をたくさん用意するので、理容では大野さん、加わってくれ、と、こう言われたんですよ。
どうするって言われても、静岡は地方でしょ。
東京に2店舗、大阪に1店舗、計3店舗。4店舗めですよ。4店舗めに静岡に出します?大阪に2店舗めならわかりますよ。
で、お前が会社作ってやったらどうか、って親父に言われたんですよ。
僕は独立するようなもんですよ、大学出た年です、22歳。
それじゃ西武百貨店の静岡の中に会社を私の会社として出しますよ、って。
有限会社O(オー)っていうのを作ってね、静岡に作ったんですよ、僕が初代の店長で。
22歳で店長っていうのは、大野での歴史でも未だに破られていない。
・・・西武さんと一生懸命やったんだけどね、でも今お店がないのはね、西武さんがつぶれちゃったのもあるんだけどその前から、やっぱり東京と大阪で静岡っていうのは結構苦労するんですよ、(スタッフの)教育から言っても、いろいろな面から言っても。
だから正直言って私が独立した会社だからやめたくはなかったんだけど、でもうちの店長ね、経験者が、静岡の後をやりたい、って言ってきたんで、で、静岡の西武を出て近くに店を出して、そしてお客さんを全部そっちへ分けて、うちは撤退したんだね。
その前はすでに青山の店ができたり、都ホテルの店ができたり、大阪に次の店ができたり。
静岡は不便だよね、こっちから行くのに。
正直言って静岡が離れて、私自身は楽になった。
(それまでは)大晦日はね、必ず日本橋が終わってから静岡に行ったんですよ。
こっちの打ち上げが終わってから(静岡の)百貨店に挨拶して、スタッフの打ち上げして、それから新幹線の最終で帰ってきた、それを毎年10何年かやってたんですよ。
うちの手を離れて、私自身は少し楽になりましたよね。
その間、親父の亡くなった後、教育の中枢をさせていただく理容業界の21世紀ビジョンを作って、全国に講習して、理容業の皆さんにわかるように咀嚼(そしゃく)して、これからの理容業はこう考え、こう変えていきましょう、というのをチーフで全国を回ったね。
都道府県で1つの県に4回以上行っている。毎月どこかの講習会に行っていました。
県に、北部・中部・南部、と支部があれば、それぞれ行かなければいけない。
物事の考え方、理容業という産業は将来どうあるべきか、どうあるべきである、そういうのを作ったんです。
それで、どういうふうなことにおきゃくさんは価値を感じるか、価値を感じていただくためにはどうしたらいいか、お客さんが自分でできるレベルのシャンプーとか顔剃りをやってちゃだめだ、と。
さすがプロだな、ということをしなくちゃいかん、ということを言って回ったんです。
理容師法、美容師法というのに変わるにあたって、厚労省から有識者のひとりとして法改正の会議に出ていました。
理容師美容師カリキュラム検討委員会というのがあってね、理容師美容師の学校はどのようにカリキュラムを作ったらいいのか、これからの理容師美容師は21世紀型にするにはどうしたらいいか、というような。
理容師美容師の価値というか、お客さんがどんどん専門的になってきて、ヘアカラーでもパーマでもあるいは顔剃りでも、求められるレベルがどんど高くなるんですよね。
前は髭剃れてたから良かったのが、髭剃りだけじゃだめだ、と。
もっと顔を丁寧にやって欲しいとか、パックもできるならやってくれとか。
昔の人はそんなこと習ってないから、教えられない訳ですよ。
だから学校で、より詳しく専門的に教える授業が必要、ということ。
自分で勉強すればいいんだけど、若い子たちはお店によって随分隔たりがあるじゃないですか。
誰もが21世紀型の理容師になるための環境を整えなければいけない、と。
私が一貫したのは、21世紀型の理容師はどうあるべきか、というと、髪をカットする、洗髪する、顔剃り、セット、この中で何をお客さま、価値を感じるか、その感じることについてより高い技術や知識が必要である、と。
そのためにはこういった知識とか。
それから情報化社会になるから、これからはただカットするんじゃなくて、ネットワークの考え方とか、パソコンの授業も、そういったスキルを持っていなくてはいけない、と。
顔剃りのケアについても、リンパの流れとか、そういう専門的知識を持っていなければいけない。
爪も磨かなければいけない。
いろいろ磨きをかける可能性が求められてくるから、それに応えられる理容業でなければいけない。
だから自分のところはこれだけは任せてくれっていうことを考えるお店がお客さんから支持される。
自分のところにストーリーを作らないと。
「男磨き」なんて何かわからないときは「快眠クラブ」って店作ったんですけど、大阪で景気が悪くなったのと、情報化社会が進んでいった時にストレスがたまる人が増えた時に、これはビジネスマンにとって受難な時だな、と。
散髪しているぐうぐう寝られるように環境を作ろうよ、と。
お客さん、うちに来たら寝てください、と。
快眠コースとか夢心地コースとか作ってね。
私共のお客さんには比較的ビジネスマンが多い環境なんですよ、リッチ条件がね。
僕はね、カトマイズって言っているんです。
カトマイズはお客さま仕様、個室はカトマイズするため。その人仕様の店になる。
周りのお客さまの人の目を気にしたり、カットしている時に上司が隣りに来たりしないように。
だから個室にして「情報産業」にする。
糸川秀夫さん、未来工学、宇宙工学の権威のかたのセミナーがありまして、我々理容業に対しておっしゃったのは、ずっとそれが頭に残っていますが、「理容産業は情報産業にある限り未来はバラ色だ」と。
カットするという生産業じゃだめなんですよ。
やはりそこに「心」、「情緒の心」、もちろん部外者な的な背景も、0心がどれだけ寄り添えるか、それが理容業のこれからだ、と言われました。
・・・後編へつづきます。
Hair Salon ONO iki 日本橋本店
日本橋室町3-3-1 ETビル地下1階
03-3213-0458
営業時間 月~金 10:00~21:00
(ラストオーダー20:00)
土日祝 10:00~20:00
(ラストオーダー19:00)
年中無休
艶出専科本店
日本橋室町3-3-3 CMビル1階
03-3211-7031
営業時間 月~金 10:00~21:00
(ラストオーダー20:00)
土日祝 10:00~20:00
(ラストオーダー19:00)
年中無休
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