【遠足シリーズ第21弾】佐久間象山の足跡をたどって
こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
先日の休みを利用して長野県に行ってきました!今回の目的地の一つは松代。
タイトルにもある通り、幕末の思想家・兵学者である佐久間象山の足跡をたどる形で、松代、そして現・中央区での彼の人生を振り返ってみたいと思います。
トップの写真:象山神社(ぞうざんじんじゃ)にて撮影。
佐久間象山宅跡
2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」への登場により、佐久間象山とはどのような人物であったのかご存知の方も多いかもしれません。
1811年2月11日、象山は現在の象山神社に隣接する祖父以来の佐久間家の邸宅で誕生しました。
数年間の江戸への留学をはさむも、1839年の2度目の江戸留学までの29年間ここに住み、松代藩の青年たちに学問を教えていました。
現在の生家跡には、案内板および屋敷内の部屋(主屋跡や学問所跡等)の位置を知ることのできる看板や石の区切りが見られます。
佐久間家は五両五人扶持の下級武士であるにもかかわらず、敷地面積は878㎡と広い方。
しかし、1864年に象山が攘夷派の浪士によって京都で暗殺され、佐久間家は断絶。
屋敷は藩に没収され、建物は解体されてしまいましたが、広い敷地にぽつんと残る古井戸が、唯一当時の生家を偲ばせます。
また、そのような象山ゆかりの地には、煙雨亭と呼ばれる茶室もあります。
この茶室は、象山が松代における9年の蟄居の後、幕府の招きに応じて京都に上り、しばらくしてから鴨川べりに構えた家に備えられたものです。
良い眺めを楽しませてくれたその家は、雨に煙る情緒豊かな風情を愛でた象山により煙雨楼と名付けられました。
しかしその家は、1864年7月17日に彼が非業の最期を迎えるまでのわずか2ヶ月の住まいとなってしまいました。
彼の誕生の地にて、暗殺直前の家の一部が移築されているのは何とも不思議な縁の巡りあわせですね。
文武学校
1855年、松代藩の藩校「文武学校」が開校しました。
文武両道をモットーとした武士の育成をし、賞と罰とを明白にした厳しい教育がなされた藩校では、松代藩八代藩主 真田幸貫が象山らの意見を反映し、蘭学や西洋砲術等を積極的に取り入れていました。
廃藩置県により1871年に藩校としては廃校になりましたが、その後も松代尋常小学校、松代小学校等と名前を変えながら長きにわたり地域の学問・教育の中心として使用されてきました。
現在は保存整備の真っただ中ですが、同じ建物の中でも装飾が異なったり、材料や仕上げが変わったりしているため、その場所がどう使われたか考えることで色々な見方ができるとのこと。
整備後に改めて訪問したくなります。
象山神社
前述の通り、象山の生家の隣には彼を祀る象山神社があります。
1913年の象山殉難50年祭を機に象山を祭神とした神社の建立計画が進められ、1938年に県社として建立されました。
境内には他の神社では見られないものがいくつかあります。
そのうちの1つが、松代藩八代藩主真田幸貫公・佐久間象山先生並びに象山先生門下生の銅像です。
松代藩八代藩主は、若き日の象山の才能を見抜いていました。
その期待に応え、象山は「海防八策」を立案。
さらに、国の危機を感じ、「東洋道徳・西洋芸術(技術)」という論理を打ち立て、その門下から明治維新の中心となる多くの人物が輩出されました。
ここで見られる彼の門下生は、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本左内、小林虎三郎等です。
中央区ともゆかりのある長州藩士吉田松陰の案内板には、19歳で象山塾に入門したこと、そしてペリー艦隊密航事件により江戸小伝馬にて入牢したことが書かれています。
さらに、社殿の近くにある高義亭と呼ばれる建物も象山ゆかりのものといえます。
この建物は、松代藩家老望月主水貫恕の下屋敷にあったものですが、1854年に象山が吉田松陰の密航事件に連座し、国許蟄居を命じられた際に、望月氏の下屋敷にあった遠楼に住んでいたといいます。
しかし、来客があるとよくこの高義亭の2階にある7畳半の間で対応し、国家の時勢を論じていました。
訪問者の中には、高杉晋作や中岡慎太郎らが含まれていました。
川中島古戦場・八幡原史跡公園
過激な攘夷派によって暗殺され、54歳と若くしてこの世を去った象山ですが、彼の貢献は多岐にわたります。
象山記念館の近くにある旧松代藩鐘楼は「日本電信発祥の地」とされ、象山が電信実験をした場所として知られています。
そのような松代への多大な貢献のためか、5度にわたって繰り広げられた武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いの舞台 八幡原にも彼の像が設置されています。
さて、ここまで松代にて象山の足跡の一部をたどってきましたが、舞台を中央区に移し、象山ゆかりの地を見てみたいと思います。
佐久間象山塾
現在の中央区銀座6丁目を歩くと、「佐久間象山塾跡」の案内板に気づきます。
はじめは儒学を修め、1839年に神田お玉ヶ池付近に塾を開きましたが、後に海防の問題にも興味を持ち西洋砲術や蘭学を学んでいます。
そして1851年、兵学や砲術について教え、海防方策の講義等を行う目的で木挽町に開塾。
この塾は20坪ほどの規模で、常時30~40人が学んでいたようです。
ここには、前述の勝海舟、吉田松陰、橋本左内等、多くの有能な人物が集まりました。
さらに、諸藩から砲術稽古を目的とした門下生も多く集いましたが、吉田松陰の密航事件に連座して国許への蟄居を命じられたことをきっかけに、この塾もわずか3年で閉鎖されるとととなりました。
しかし、この地での教えがあってこそ、開国への熱い想いを継承する数々の門下生が輩出されました。
新しい時代を見ることなく無念の死を遂げた象山でしたが、明治維新は彼が築いた礎なしには語れないでしょう。
正直なところ、これまで明治維新頃の歴史上の人物のストーリーにはあまり関心を持てずにいました。
しかし、今回彼の生涯をざっと知る機会に恵まれたことで、門下生を通じた全国的な広がりや海外との接触、電信実験等、自分の中で気になるトピックを発見。
江戸木挽町を拠点とした頃の影響力や当時の講義内容についても調べてみようと思いました!