諸説の一つ: 明治時代に出来た銀座通りの「勧工場」(かんこば)は「銀ブラ」のもとになった?(本命?)
百貨店第一号は日本橋の三井越後屋(現三越)という説に対して、「勧工場」がその原点であったという説もあります。「勧工場」は現在のショッピングセンターのようにデベロッパが開発した建物に小売店などの小規模店舗が出店したもので、建物全体としては多様な商品を取り扱う大型店となっていました。1878年(明治11年)の「府立第一勧工場」が最初で、東京・大阪などの繁華街に誕生し1899年には銀座に「帝国博品館」という店舗が誕生しました。20世紀に入って呉服店から転じた百貨店が誕生すると急速に勢いを失い次々と姿を消し、大正期まで残っていた帝国博品館も関東大震災で全焼してしまいます。勧工場が銀座を含めた繁華街の主役であったのは20年余りという極めて短い期間でした。
最盛期には銀座通りに7軒の勧工場があった
最盛期(明治35年)には東京に27軒の勧工場がありましたが、当然日本橋にも作られました。銀座の勧工場が後のメインストリートとなる銀座通りに出来たのに対し、日本橋は蛎殻町や米沢町などややローカルな場所に開かれました。恐らく日本橋の老舗の反対に遭遇し、日本橋界隈には進出できなかったのかもしれません。通説では昭和9年に銀座の不動産価格が日本橋を抜いて日本一の繁華街となったのも、勧工場の進出地域の差が関係しているかもしれません。
銀座(1~4丁目)だけで最盛期には7軒の勧工場があったと言われています。扱われた商品は、洋衣類、文具、玩具、履物から幻燈用映写機、空気銃、塗物、タンス、瀬戸物、小間物、絵草子など。また、中元・歳暮の時期には2階のバルコニー状になった所に楽隊を立たせて、大掛かりな宣伝をやり銀座の勧工場は観光名所になりました。
明治32年に作られた勧工場である帝国博品館は、建物としても斜めに入口を配し、入口から自然と上の階に昇り、やがて一階出口に至るという構造が珍しく、また時計台を持つ特異な外観も興味深い存在であったようです。
帝国博品館(1899年)
勧工場のもう一つの特徴は下足のまま入場できるというものでした。明治15年に作成された東京商工博覧絵の銅版画では、下足で出入りする様子が描かれています。百貨店が明治後期から陳列販売方式を採用していますが、下足のまま出入りさせるようにしたのは関東大震災以降で大正末期から昭和にかけてと推測されます。銀ブラの起源は「銀座をブラブラ歩く」「銀座でブラジル産のコーヒーを飲みに行く」など諸説あります。陳列販売はショーウィンドウ形式の販売を意味しますので、勧工場は「ウィンドーショッピングをしながら銀ブラをする」という新しい形式の先駆けを作ったので、銀ブラの本命かもしれません。
(参考文献)
1. 勧工場の設立とその後の変遷 日本建築学会論文報告書 初田亨 UDC:72.036
2. 勧工場の隆盛と衰退 法政大学イノベーションマネジメント研究センター 2020/11/11 No.234
3. 中央区沿革図集