人形町駅から行ける、静かな佇まいの神社 ⑫
~ 矢之庫稲荷神社 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をインテンシブに取材します、rosemary sea です。
『人形町駅から行ける、静かな佇まいの神社』シリーズ、今回は第12回、矢之庫稲荷神社(やのくらいなりじんじゃ)をご紹介します。
それでは・・・
御由緒
今日隣接する東日本橋1丁目あたりが谷野(やの)と呼ばれていた頃、正保2年(1645年)幕府が米蔵を建て谷野蔵(やのくら)矢之庫と称されていました。
その庭中に御蔵の鎮神として三社を合殿した三社稲荷神社をまつりました三社は、中央に「谷野蔵稲荷」、左に「福徳稲荷」、右には「新左衛門稲荷」からなりたっておりましたが、50年程経て元禄11年(1698年)に御蔵を鉄砲洲に移転すると共に、三社稲荷を一緒に移されました。
御蔵の後地に居住する人達がその名を惜しんでそこに三社稲荷を残し、今もなお東日本橋1丁目に「矢の倉三社稲荷」として祭られております。
後年明治6年(1873年)に「新左衛門稲荷」が、昭和7年(1932年)には「福徳稲荷」が、当町にある「初音森(はつねもり)神社」に遷座合祀されたと伝えられ残る「谷野蔵稲荷」は幾多の変遷場所を変え、現存地にその社を構えるに至りました。
その名称に使われている文字もいつの頃から「矢の倉稲荷」と、特に「倉」の文字を強調した呼称に改められました。
祭神は「三社稲荷神社」と同様、「宇賀魂命(うかのみたまのみこと)」と考えられ、御神体はもちろん現存しないわけですが、翁(おきな)の形で手に鎌と稲穂を持つと伝えられております。
社殿は近くの薬研堀不動院(やげんぼりふどういん:薬研堀不動尊とも)の開創420年を記念し、平成23年に社殿と境内が新築されました。
合鴨料理の老舗、鳥安さん奉納の幟(のぼり)が鳥居前にありました。
鳥安さん、今後の取材予定先です。ご期待ください。
石碑
「信為本 昭和30年秋吉日 黒川武雄謹書」と刻まれています。
奉納碑
今回も江戸古典落語、披露させていただきます。
第5回になりますが、前回第4回と同様、ロズマリ大親友・Wさんのオファーです。
「百年目(ひゃくねんめ)」をお送りします。
ここ矢之庫稲荷神社、もしくは薬研堀不動院の近くには「柳橋(やなぎばし)」あります。
ここを題材とした有名な古典落語に「船徳(ふなとく)」があります。
他に、隅田川になぞられたお話、大阪の船場(せんば)のお話が最初とも云われていますが、江戸では柳橋と隅田川の土手が舞台のお話、それが「百年目」です。
それでは・・・
「百年目」
大店(おおだな)の大番頭・治兵衛(じへえ)は店の者に小言ばかり言います。
カタブツで通っていまして、「芸者という紗(しゃ)は夏着るのか?」「舞妓という粉(こ)は一升いくらか?」「太鼓持ちという餅は焼いて食べたらうまいのか?」などとうそぶきますが、本当はかなりの遊び人。
番町まで行くと言って店を出ましたが、内緒で花見へ。
途中で着替えて、芸者衆、太鼓持ちを引き連れ柳橋から屋形船を出しました。
隅田堤に上がり、花見の余興で鬼ごっこ。
芸者を捕まえたと思った治兵衛、目隠しを取るとそれは何と、別に花見に来ていた自分の店の大旦那。
「どうもお久しぶりで・・・」と言い繕い、急いで店に立ち帰る。
そして具合が悪いと言ってすぐに床に着く。
翌朝店に出ると、奥の大旦那に呼ばれます。
日頃の働きぶりを褒められた上で、こう言われます。
「一軒の主を『旦那』と言うが、その訳を知っているか?
昔、天竺(てんじく)の栴檀(せんだん)という立派な木の下に、南縁草(なんえんそう)という雑草が生えていたそうな。
目障りと思い南縁草を抜いてしまったら、栴檀が枯れてしまった。
南縁草が生えて枯れるのが栴檀の肥やしになり、南縁草は栴檀の下ろす露で育つ、ということ。
栴檀の「だん」と南縁草の「なん」で「旦那」になった。
こじつけかもしれないが、私とお前の仲も栴檀と南縁草の関係、持ちつ持たれつ。
店に戻るとお前が栴檀、店の者が南縁草。
少しは店の者に露を下ろしてやってくれ。」と。
つまり「下の者にも思いやりを持って接して欲しい。」と諭されました。
大旦那、続けて、
「そう言えば昨日『お久しぶりで・・・』とか何とか言ったね。
あれは何じゃ?」
治兵衛、「あんな姿を旦那に見られて、これはもう“百年目”かと。」
矢之庫稲荷神社
東日本橋2-6-8
「人形町駅から行ける、・・・」と申し上げてきましたが、実際は都営浅草線 東日本橋駅より徒歩1分です。
東日本橋駅からは、薬研堀不動院の手前になります。
矢之庫稲荷神社は、中央区の最北端の神社となっています。