人形町駅から行ける、静かな佇まいの神社 NO.29
~ 摂社 日枝神社 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をファンダメンタルに取材します、rosemary sea です。
「人形町駅から行ける、静かな佇まいの神社」シリーズ、第29回の今回は、摂社 日枝神社(せっしゃ ひえじんじゃ)をご紹介します。
それでは・・・
御由緒
摂社日枝神社は天正18年(1590年)徳川家康公が江戸城に入城、日枝大神を崇敬されて以来、御旅所の存する「八丁堀北嶋(鎧島)祓所」まで神輿(みこし)が船で神幸された事に始まります。
寛政12年(1800年)の江戸名所図会巻二では、神主樹下氏持ちの山王宮と別当観理院持ちの山王権現の遥拝の社が並び建ち、隔年6月15日の山王祭の際は、この二社の手前に仮殿が設けられ、永田馬場の本社からの神輿三基を中心とする供奉行列の神幸があり、実に大江戸第一の大祀にして壮観であったと伝えられています。
境内地には天満宮、稲荷社、浅間社のほか、山王の本地とされる薬師堂や閻魔堂も建立され、縁日や勧進相撲も行われていました。
明治元年神仏分離令により薬師堂と同別当智泉院の敷地は境内から分離されました。
明治10年に山王宮は無格社日枝神社に、大正4年には本社の官幣大社昇格に伴い摂社日枝神社と改称されました。
現在の社殿は大正12年9月の関東大震災後、昭和3年に造営され、境内末社(北野神社・稲荷神社・浅間神社)が合祀されました。
昭和20年3月の東京大空襲により罹災しましたが、直ちに補修を行い、昭和41年に御屋根葺替と大修理を加えました。
平成22年には再び、老朽化した社殿に外装工事を施し今日に至ります。
なお正面の石鳥居は、万治年間に本社石階段下に設けられましたが、昭和36年に現在地に移設されました。
山王祭(さんのうまつり)・・・
山王日枝神社(千代田区)の例祭は「山王祭」と呼ばれ、江戸三大祭りのひとつとされています。
中でも神田明神の「神田祭」と、山王日枝神社の「山王祭」は隔年で交互に行われ、両社は江戸を守護する神社として徳川将軍家から特に崇敬を集めたため、祭りの際には山車(だし)が江戸城に入って将軍家に拝謁することが許され、「天下祭」と称されました。
御旅所(おたびしょ)・・・
神社の祭礼の際、神輿が巡行の途中で休憩(または宿泊)する、その場所。
今回も江戸古典落語をご披露します。
『子別れ』を登場させました。
第21回ともなると大変です。
日枝神社の「枝」→「枝分かれ」→「子別れ」という、非常に苦しい噺探しをお察しください。
<事前確認コーナー>
この演目は大ネタです・・・
上・中・下の三部構成で、上は「強飯(こわめし)の女郎買い」、下は「子は鎹(かすがい)」という副題で呼ばれることが多い作品です。
弁松の強飯(こわめし:赤飯)・・・
このブログにも多く登場します、もちろんロズマリも、樋口社長インタビューを含め数度掲載させていただいております、日本橋室町1-10-7の日本橋弁松総本店さん、創業嘉永3年(1850年)の「折詰料理専門店発祥のお店」と言われていますね、その弁松さんの赤飯が、この噺の上の部分に登場します。副題「強飯の女郎買い」となっているほどのキーワードです。
今回は「上」の部分をたっぷりご紹介します。
(下の画像は現在の弁松さんで販売されております白詰と赤詰です。)
ただ、弁松さんとしましては5月8日掲載の「人形町駅から行ける、静かな佇まいの神社」④ 常磐稲荷神社でも申し上げましたとおり、常磐稲荷神社の奉納額に名を連ねています。
※ 掲載につきまして日本橋弁松総本店 八代目 樋口純一さんにご了解をいただきました。
玄能(げんのう)と鎹(かすがい)・・・
「玄能」とは玄翁とも書き、金づち、いわゆるトンカチの一種。片面は木材を傷つけないよう丸みを帯びています。
「鎹」とは木材の接手をつなぎ固めるための「コ」の字の形の大釘。大きめの玄能で片側ずつ打ち込みます。
『子別れ』
神田堅大工町の大工、熊五郎さん、腕は良いが大酒飲みで遊び人。ある葬儀の席で思い切り酔っ払います。
「女房子供にうまいものでも食べさせてみろ」と皆に意見され、悪態をつくが、出されていた弁松の別あつらいの強飯(こわめし)の弁当の折を懐、袂、背中に入れて寺を出ます。
帰る途中でふらつき、背中に入っていた弁当からがんもどきの汁(つゆ)が着物などに沁み込んでしまいます。
女郎をからかいに行き、すげなくされ、とりなしてくれた若い衆に弁当をあげますが、・・・
若い衆「大変けっこうで、さすが弁松さんですな、でもがんもどきのつゆが少ないようで」
熊五郎「弁当をこっちに持って来い」
若い衆「取り替えていただけますか」
熊五郎「いや、今絞ってかけてやる」
そんなこんなで大酒と吉原通いがもとで女房に出ていかれます。当然子供の亀吉も一緒に。
その後吉原の女郎と暮らしますが長続きせず、こちらにも出ていかれます。
3年が経ち、熊さん、まじめに働きはじめたある日、息子の亀吉に会いに行きます。
熊五郎「小遣いをあげよう、おっかあに言うんじゃないよ」
そして、
「明日はウナギを食べさせよう、鰻屋で待ってる」と。
亀吉、家に帰ると銭を母親に見つかってしまい、詰問されます。
母親「なんだい、この銭は、盗んだんじゃないだろうね、言わないならこれで殴るよ、この玄能で」
別れた熊五郎の大工道具をなぜか持っていました。
とうとう男同士の約束を破り、亀吉は白状します。
亀吉「おとっつぁんにもらった、明日はウナギを食べさせてくれるって」
次の日、亀吉は母親同伴で鰻屋に行きます。
亀吉「もう一度一緒に暮らそう、仲直りしておくれよ」
熊五郎「そういうことならやりなおそう、子は鎹(かすがい)だ」
亀吉「それできのうは、玄能でぶたれそうになった」
境内社 明徳稲荷神社
元禄年間(1688年~1704年)に創建されたと伝わる稲荷神社です。
近くの名跡のご紹介です。
鎧橋(よろいばし)・・・
鎧橋が最初に架かったのは明治5年で、当時の豪商が自費で架けたのが始まりです。
橋が架けられたのと前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し、この地は大いに賑わいました。
その後、明治21年には鋼製のプラットトラス橋に架け替えられました。
その頃の様子を文豪 谷崎潤一郎は「幼少時代」でこんな風に書いています。
「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・
私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・
対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。
このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。」
現在の橋は昭和32年7月に完成したもので、ゲルバー桁橋とよばれるものです。
橋の外側に間隔を置いて突き出ている鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます。
続いてもうひとつ、実はこちらの方が古いのですが。
鎧の渡し跡・・・
鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しです。
古くは延宝7年(1679年)の絵図にその名が見られ、その後の絵図や地誌類にも多く記されています。
伝説によると、かつてこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(1046年~1053年)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪にあい、その船が沈まんとしたため、鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われています。
この渡しは、明治5年(1872年)に鎧橋が架けられたことによりなくなりますが、江戸時代に通されていた渡しの風景は「江戸名所図会」などに描かれており、また俳句た狂歌等にも詠まれています。
縁日に 買うてぞ帰る おもだかも
逆さにうつる 鎧のわたし
和朝亭国盛
摂社 日枝神社
日本橋茅場町1-6-16
東京メトロ日比谷線・都営浅草線 人形町駅 A2出口を出て人形町通りを車の一方通行の反対方向の右へ約150m、「水天宮前」の信号交差点を右折。
約200m先に「銀杏八幡宮」があり、その先の五差路が「蛎殻町」交差点。
道なりに右へ進むとすぐに「鎧橋」を渡り、その先約120mの右に「摂社 日枝神社」の参道があります。
至近は茅場町駅です。