隅田の花火

隅田川・半藤一利さんを偲ぶ

戦争が始まったというニュースを聞いて、日本の方々は先の太平洋戦争のことを思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。とは言ってもその真珠湾攻撃から、もう80年も経ってしまいましたので、「まさか戦争になってしまうとは」、と感じられた方が多いのかもしれません。

私は今回のニュースで、半藤一利さんのことが思い浮かびました。昭和の歴史をわかりやすく綴ったベストセラー本「昭和史」を書かれた方です。半藤さんは、昨年に亡くなられましたが、子どもの頃に戦争体験されていることもあって、戦争のこと、平和のことについて綴り、語られてきました。

私が半藤一利さんを知ったのは、中央区観光協会特派員になって、ひと昔前の隅田川のことを調べようとした際に、本屋で半藤さんの本を見つけた時でした。

 隅田川・半藤一利さんを偲ぶ

昔の隅田川の「実体験」が書かれている本は、意外と少ないんです。半藤さんは昭和5(1930)年、今の墨田区に生まれ、子どもだった時に東京大空襲を経験、命を落としそうにもなりました。そして戦後に東大のボート部に入って、隅田川の水の上でオールを握り、ナマの隅田川を体験されています。本には、そうした半藤さんが子どもだった頃の戦争体験や下町風景、そして時代背景が軽快に書かれていまして、昭和史で有名な半藤さんではありますが、隅田川の歴史を知る上でもとても有益な情報源となっています。半藤さんは、ご自身の経験をきちんとした文章という形にできて、伝えることのできる、とても貴重な方でした。

 

昨年の夏・コロナのデルタ株が蔓延する前だったのですが、半藤さんに縁のある「隅田川ボート記念碑」というものが中央区よりも上流にあることを知りまして、その碑を見に行ってみました。冒頭の写真がその写真です。浅草駅から歩いて隅田川に架かる「すみだリバーウォーク」を渡ってすぐ、言問橋方面にあります。半藤さんの名前が刻まれていますね。

かつて隅田川ではボート競技が盛んでした。この碑の隣には、明治天皇が競技を天覧された碑も残っていて往時をしのばせています。

 隅田川・半藤一利さんを偲ぶ

今も早慶レガッタという競技が隅田川に残っていますが、碑にはボート競技がもっと盛んだった昭和の頃の半藤さんの記憶が記されています。昭和は、ほんの少し前の時代であるものの、意外と知らなかったりする時代。それをきちんとした形で残していくということは、とても有意義であると感じます。

もし隅田川にご興味があって、ひと昔前のことをお知りになりたい、ということがございましたら、半藤さんが残された文章をお読みになっていただけたらと思います。

 隅田川・半藤一利さんを偲ぶ

 

半藤さんの中央区への関わりですが、大学を出た半藤さんは、当時銀座にあった文藝春秋社に入社、戦災から復興していく銀座の街を目の当たりにしてきました。その頃の様子などを銀座百点にも寄稿されておりまして、その文章が載せられた本も、亡くなられた直後に発刊されています。

 隅田川・半藤一利さんを偲ぶ

読んでいて面白かったのは、復興中の街「銀座」を歩く女性のことを、日々ビルの上から眺めていると、だんだんと綺麗になっていったのを感じた、というところ。昭和28年頃だそうです。これって、半藤さん自身がまだ若かったということもあって、女性を見る目が日々肥えていったからではないのか、とも思ってしまったのですが、たくましく苦境を乗り越えていった日本や銀座のひとつのエピソード、ということなのかもしれません。

 隅田川・半藤一利さんを偲ぶ

こういった、半藤さんが肌で感じられたお話もとても貴重です。半藤さんが書かれた本は、まだたくさんあるようですので、ご興味があるようでしたら読んでいただけたらと思います。

 

中央区八重洲通りにある平和の鐘です。昨年の夏に撮りました。中央区は平和都市という宣言をしていまして、平和を希求している街です。

 隅田川・半藤一利さんを偲ぶ

今回起きた戦争のニュースを見ていて、一番心苦しく感じたのは、お母さんと子どもは他国に逃げのびるかたわら、お父さんは自国で戦う為に残る。家族が散り散りになってしまったことを映像が映し出していたことです。

今日本は、平和で幸せなのだと思います。でももしかしたら、平和に甘え過ぎているのかもしれない。身近な人と一緒にいられることに感謝したり、一緒にいるべき人と一緒にいたり。今平和なときに、たくさんやっておいたほうが良いのかもしれません。