考察 数寄屋橋界隈 ⑤
~ こちらも数寄屋橋公園 後編 ~
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
シリーズでご案内します「考察 数寄屋橋公園界隈」、今回は第5回、「こちらも数寄屋橋公園 後編」をご紹介します。
それでは・・・
冒頭画像について・・・
左から、
〇 「京橋奨兵義會 忠魂碑之跡」碑
〇 『社会を明るくする運動』発祥の地・銀座 記念碑
〇 『社会を明るくする運動』説明板
〇 「銀座の象徴 柳並木」碑
〇 銀恋の碑
〇 「数寄屋橋公園」碑
「京橋奨兵義會 忠魂碑之跡」碑について考察します。
出征して英霊となられた方々の忠魂碑が建っていたところ、ということでしょうね。
銀座なのに京橋?
ここは以前(1878年【明治11年】11月~)、『京橋区』でした。
1947年【昭和22年】3月、『京橋区』と『日本橋区』が合併しまして『中央区』が誕生しました。
1945年【昭和20年】8月からを戦後と考えますと、出征時期は京橋区の頃、ということでしょうか。
…植樹されていますのはハナモモ(花桃)・ボタン(牡丹)・ハナミズキ(花水木)のスプリング グローブ・同じくハナミズキのセレステアル シャドー・モニワザクラ(茂庭桜)など。
ボタンもヤチヨツバキ(八千代椿)・セイダイ(聖代)・タマウサギ(玉兎)・シマダイジン(島大臣)・ヨシノガワ(吉野川)・フジゾメゴテン(藤染御殿)・イソノナミ(磯の波)など、多品種が植えられています。
※ 今年春撮影です。ハナモモが咲いています。
銀恋の碑
銀恋の碑
心の底まで しびれる様な
吐息が切ない 囁き(ささやき)だから
泪が思わず 沸いてきて
泣きたくなるのさ この俺も
東京で一つ
銀座で一つ
若い二人が 始めて逢った
真実(ほんと)の 恋の 物語り
大高 ひさを 作詞
鏑木 創(かぶらぎ はじめ) 作曲
銀恋の碑
ー 大流行したデュエットソングの記念碑 ー
大高ひさを作詞・鏑木創作曲による歌謡曲『銀座の恋の物語』は、昭和36年(1961年)、石原裕次郎と牧村旬子(まきむら じゅんこ)のデュエットで大ヒットした。
この功績を後世に伝えるため、平成2年(1990年)、銀座通連合会・西銀座通会・テイチクによって銀座に歌碑が建立された。
碑の左右に座席が設置されており、碑を挟んで記念写真を撮ることができる。
ー 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ー
・・・確かに、碑の両脇に座れるようになっています。
・・・テイチクよりこの曲のレコードが発売されました翌年の1962年には、日活制作・配給にて同名映画『銀座の恋の物語』が公開されました。石原裕次郎さん・浅丘ルリ子さんが出演されていました。
当然ながら『銀座の恋の物語』が主題歌となっています。レコードは300万枚売れた、と言われています。
・・・東京メトロ日比谷線 銀座駅では、発車メロディとして『銀座の恋の物語』が流れてきますね。
「銀座の象徴 柳並木」碑
銀座の象徴 柳並木
銀座の柳は明治10年頃銀座に植えられ銀座の象徴とされたが、3度の変遷を経て昭和43年銀座通りの改修と共に姿を消した。
このたび西銀座通りが東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石舗装を施し面目一新されたことを機に、並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした。
西銀座通会はこの柳が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願い、ここ数寄屋橋公園に碑を建立する。
平成11年11月
『社会を明るくする運動』発祥の地・銀座 記念碑
法務省主唱
社会を明るくする運動
発祥の地 ・ 銀座
『社会を明るくする運動』発祥の地・銀座
「社会を明るくする運動」は戦後の社会的混乱の時代、犯罪や非行のない明るいまちを目指し、銀座の商店街が「銀座フェアー」として始めたのがきっかけになりました。
昭和26年には法務府(現法務省)により、この運動が主唱され、今ではわが国でも屈指の規模を誇る国民的運動として定着してきました。
この度、中央区の保護司会と更生保護女性会が創立50周年・30周年を記念して、この運動の意義と理念を新しい世代に伝え、平和で明るい社会の実現を祈念して、「社会を明るくする運動」発祥の地銀座に記念碑を建てました。
平成15年1月
「数寄屋橋公園」碑
「数寄屋橋公園」と書かれた碑もあります。
数寄屋橋公園
銀座4-1
前回④と今回⑤での「数寄屋橋公園」は、『現在地』で赤く示されている地点です。
このシリーズ①~③での「数寄屋橋公園」は、晴海通りを挟んで図の上側「数寄屋橋公園」と黄色で塗られています地点です。(銀座5-1-1)
東京メトロ銀座線・丸ノ内線・日比谷線 銀座駅 C4出口を出て裏側に回ります。
(銀座5丁目側は、C2出口を出て戻るかたち、すぐです。)