中央区からも出た!江戸時代の埋蔵金
こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
特派員ブログの読者の皆様の中には、徳川埋蔵金にご興味のある方はいらっしゃいますか?
その真相は令和の今でも謎に包まれ、多くの歴史マニアの関心の対象となっています。
私は数年前まで徳川埋蔵金にほとんど興味はなかったのですが、とある山まで埋蔵金調査に行った同世代の友人から面白い話をあれこれ聞き、最近は「埋蔵金」と聞くとついつい反応してしまいます。
しかし距離的なこともあり、毎週末そういった山に行くことがかないません。
そこで、半分投げやりで「中央区 埋蔵金」と検索してみたところ、新川と銀座の2ヶ所で埋蔵金が発見されたというニュースがヒット!
詳細がとても気になり、早速現場と京橋図書館地域資料室へと足を運びました。
新川の埋蔵金
まずは、亀島川を越えて新川へ。
1660年に河村瑞賢が開削したと伝えられる運河・新川は、江戸時代において、日本酒の銘醸地・上方から運ばれてくる下り酒の問屋筋として栄えました。
中央区の中でも観光で訪れる方の少ないエリアですが、これまでに霊岸島七不思議、越前堀跡、於岩稲荷田宮神社、検潮所と一等水準点、運河・新川と下り酒問屋をご紹介してきたように、新川は興味深いエピソードの宝庫でもあります。
そんな新川の地にて埋蔵金発見の舞台となったのは、日清製油(現・日清オイリオグループ)が本社ビル拡張のために買っていた鹿島本店(かじまほんだな)跡地!
日清オイリオグループ本社ビル
鹿島本店は、鹿島清兵衛(かじませいべい)が世襲する江戸きっての下り酒問屋。
豪商として繁栄していたものの、跡取り娘・乃婦(のぶ)と結婚した8代目清兵衛(婿養子)は「明治の三大蕩児」と呼ばれるほど。
いくつもの問題が原因となり彼の養子縁組が解消された後、乃婦は8代目を継いで世襲制を廃止し、8代目清兵衛のことは鹿島家のタブーとなりました。
その後の9代目には経営能力がなく、世相の移り変わりもあって昭和7年(1932年)に閉店。
昭和2年(1927年)に生まれた8代目清兵衛と乃婦の孫・鹿島実さんでさえ、長いこと8代目清兵衛について知らなかったというのだから驚きます。
しかし、驚くのはまだ早い!
閉店から約30年後の昭和38年(1963年)8月下旬、日清製油の本社社屋増築工事を請け負っていた大成建設により天保二朱金約2万枚(3万枚とも)が発見されたのです!
発見者によると、きれいな砂の入った70センチメートル四方のレンガ囲いの中に、二朱金のぎっしり詰まったガラス容器が3本入っていたのだとか。
さらに、9月3日にも天保小判1900枚と二朱金約5万枚が発掘され、合わせて時価6000万円だと賑わいました(いずれも鑑定済み)。
新川大神宮に奉献された清酒菰樽
ここで気になるのは、これらの埋蔵金は誰が埋めたのか。
9月2日の新聞には鹿島家の子孫が「先祖が埋めた」と名乗り出た旨の掲載があり、時代的に4代目または5代目の鹿島清兵衛が埋めたと考えられています。
本来は代々の店主夫婦だけが知る情報ですが、乃婦は身持ちの悪い9代目には伝えず、分家の三女夫婦に知らせていました。
これらの埋蔵金は本店の後継者(10代目)に戻された一方、小判1枚と二朱金2枚はお礼として日清製油に寄贈されたそうです。
今回、多くの小判が埋められた理由までは知りえませんでしたが、家のいざという時のために備えておいたのかもしれませんね。
こちらは引き続き調べてみたいと思います。
銀座の埋蔵金
続いては、数々の有名店が軒を連ねる銀座6丁目へ。
昭和21年(1946年)にオープンした小松ストアーでも埋蔵金が話題になりました。
時は昭和31年(1956年)5月11日、旧店舗を取り壊した跡地での地鎮祭が終わり、新店舗ビルの着工へ。
パワーショベルで10~15メートルも掘ったため、連日トラック50台分の土が江東区の埋立地に運ばれていきました。
小松ストアーの創業者 小坂武雄氏は、竹中工務店の野中主任に「ここは徳川時代の屋敷跡だから、小判くらい出るかもしれませんよ」と冗談を言っていたそうです。
冗談で終わると思いきや、埋立地での作業中に労務者・高橋衛氏が何気なく拾って持ち帰ったものが小判だと分かり、最寄りの城東署に提出。
同署は近くに住む骨董商に鑑定を頼んだところ、慶長小判だと判明したのです!
ギンザコマツ東館
その翌日は、ラジオも新聞も「銀座から小判ザクザク」とこのニュースで持ち切り。
他の労務者にも小判を拾っていた人がいたことから、10名体制で本格的に小判探しを始め、最終的に小判合計208枚(慶長48枚、正徳53枚、享保107枚)、一分金合計60枚(慶長11枚、正徳23枚、乾字7枚、享保19枚)が出てきました。
小坂氏は、このニュースで小松ストアーの名前が売れればよいと小判の所有権を放棄。
後に発掘された小判の一部を借用し記念セールをしたところ、その効果は絶大だったと報告されています。
最終的に埋蔵文化財として国が小判を保有することとなり、それらは現在上野の東京都国立博物館に収められています。
ギンザコマツ西館
そして一番の関心事は、この小判の所有者や埋蔵背景。
小坂氏が父や親戚から聞いた話によると、上野で幕府の御用商人をしていた彼の祖父は、明治維新の際に寛永寺の乱で家を焼かれ、明治2年(1869年)当時空地だった銀座に落ち着いたそうです。
小坂氏は子どもの頃、伯母が命からがら金貨だけ持って逃げてきたという話を聞いたことがあるうえ、これらの小判が以前土蔵だった場所から出てきたことから、彼の祖父らによるものと考えるのが妥当とされています。
おわりに
今回は中央区の新川と銀座から出た埋蔵金についてご紹介しましたが、いかがでしたか?
約400年前の江戸時代、中央区内には多くの藩邸があり、財を成す商人も増えてきました。
そのような背景を念頭に置くと、小判が出土することはなんら不思議なことではないのですが、こうもまとまって出てくると誰がどのような理由で埋めたのか気になります。
中央区内では日々再開発が進んでおり、ここ数年で新たに発掘された遺跡もあります。
もしかすると、今も人知れず地中に眠る江戸の埋蔵金があるのかもしれません。
そう考えると、今後の発掘調査から目が離せなくなりますね♪
【余談】
ちなみに今回登場した8代目鹿島清兵衛は、森鴎外が書いた『百物語』のモデルになった人物です。
8代目が鹿島屋本店から絶縁される最後の年に実現した百物語の会に、実は鴎外も出席していたのです。
また、8代目は演芸、幻燈、写真などに熱心で、特に写真の草創時代に貢献。
お騒がせな人物でもありましたが、彼の写真は今も注目度が高く、時々写真展が開催されています。
参考文献・ウェブサイト
【文献】
佐藤正之『TOKYO新川ストーリー:ウォーターフロントの100年』日本評論社,1991年.
竹沢えり子『花ひらく:ギンザコマツの四季 小松ストアー60周年記念』株式会社小松ストアー,2006年.
望月由隆『新川物語:酒問屋の盛衰』文藝春秋,2010年.
【ウェブサイト】
株式会社小松ストアーブログ「思わぬ嬉々事件」(2010年10月7日付)
http://www.ginza-komatsu.co.jp/blog/archives/112(2022年6月6日閲覧)
東京都国立博物館「掘り出された江戸の金貨」
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=4544(2022年6月6日閲覧)