『銀座』はどこまで?
銀座を一周してみましょう! ⑩
~ 江戸歌舞伎発祥の地・京橋大根河岸青物市場跡
・京橋の親柱(3基のうち2基) ~
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
「『銀座』はどこまで? 銀座を一周してみましょう!」シリーズ、今回は第10回です。
「江戸歌舞伎発祥の地」、「京橋大根河岸青物市場跡」、それから「京橋の親柱(3基のうち2基)」をご紹介します。
江戸歌舞伎発祥の地
(画像は文頭の1枚です。)
京橋3-4先
わずかに京橋3丁目に入っています。
ー 猿若座の猿若勘三郎が櫓を上げた場所 ー
江戸歌舞伎は、寛永元年(1624年)に猿若座(のちの中村座)の猿若勘三郎が中橋南地(なかばしなんち:現在の京橋1丁目周辺)で櫓(やぐら)を上げたのがはじまり。
記念碑は京橋のたもとにある。
ー 猿若座から歌舞伎座へ 時代とともに歩んだ歴史 ー
寛永9年(1632年)に中村座は禰宜町(ねぎちょう)に移転し、慶安4年(1651年)には上堺町(かみさかいちょう)、さらに下堺町(後の堺町)へと移転した。
また寛永11年(1634年)には村山座(後の市村座)が上堺町(後の葺屋町【ふきやちょう】)で、寛永19年(1642年)には山村座が木挽町(こびきちょう:現在の銀座近辺)で、万治3年(1660年)には同じく木挽町で森田座(後の守田座)が櫓を上げて歌舞伎の興行をはじめた。
寛文元年(1661年)に、中村座のある堺町、市村座のある葺屋町、山村座と森田座のある木挽町以外では、歌舞伎の興行が禁じられ、この四座が官許の芝居小屋として歌舞伎の興行を行った。・・・(後略)
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
・・・猿若・中村・村山・市村・山村・森田・守田、それから中橋南地・祢宜町・堺町・葺屋町・木挽町、・・・わけがわからなくなりますね。
でも、毎年の中央区観光検定で高得点をとる現役特派員さんは、これらをちゃんと理解しておられます。
ロズマリも、受検する検定試験前には説明できるようになります。(普段は、・・・忘却の彼方です。)
(碑に記されている文です。)
寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に 猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ江戸歌舞伎の濫觴(らんしょう:物事の起こり・始まり)也 茲(ここ)に史跡を按(あん:「調べる」という意味でよろしいかと)し斯石を鎮め国劇歌舞伎の地として永く記念す
昭和三十一年七月 江戸歌舞伎旧史保存会
平成24年実施の第4回 中央区観光検定では次のような設問がありました。
『銀座4丁目の交差点から中央通りを京橋方面に向かって歩き、首都高速道路をくぐった京橋のたもとに、伝統芸能の発祥を記念する碑が立っています。
この伝統芸能は次のうちどれでしょう。』
・・・4択の正解は 江戸歌舞伎 でした。
京橋大根河岸青物市場跡
(きょうばしだいこがしあおものいちばあと)
京橋3-4先
こちらも京橋3丁目です。
京橋大根河岸青物市場跡
ー 江戸市民に野菜を提供した市場の跡地 ー
江戸時代、京橋北詰西側の河岸地は大根を中心とした野菜の荷揚場(にあげば)で、江戸市民に新鮮な野菜を提供する市が立っていた。
この大根河岸は、関東大震災まで続いたが、震災後の昭和10年(1935年)に旧築地市場に移転した。
昭和34年に建立された記念碑は、江戸歌舞伎発祥の地碑のすぐ近くにある。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
(碑に記されてある文です。)
京橋大根河岸 青物市場跡
遠く寛文の初め、江戸数寄屋橋邊(へん)に處(ところ)の人数名打倚(うちよ)りささやかなる青物の市を立てしに遠近の村村より作物多く集りぬ是等の店はゆききの人或いは附近の人人に之をひさぐ数年ならずして店の数増加し漸(ようや)く市場の形整い江戸府民のため無くてはかなわぬ機関とはなりぬその後火炎に罹(かか)りしにより東海道の要路にあたり且つ水運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移轉(いてん)す偶(たまたま)この市場への大根の入荷殊更(ことさら)夥(おびただ)しきにより世の人大根河岸と呼び遂に京橋大根河岸と稱(とな)うるに至るかくて二百餘(よ)年を経たる明治十年京橋南岸の太刀賣(たちうり)と稱(しょう)する甘藷(かんしょ)問屋数名を加入せしめ問屋三十七軒仲買十七名を數(かぞ)うるに至りしかば府尹(ふいん)の認可を得て組合を設立しここに始めて大市場としての規模完成す
大正十二年九月大震災の厄難に遭いしも組合員は鋭意復興に努力し以前に優る盛況を呈す時に問屋六十八名仲買百五名なり昭和十年二月中央卸売市場法實施の一環として東京市中央卸売市場の開設さるに際し國家の要請否みがたく父祖三百年愛着の絆を断ちて揺籃(ようらん)の地を去り築地本場に入り問屋は一体となりて會社を起し仲買は舊態(きゅうたい)のまま開業すその後第二次世界大戦のため幾多の變革(へんかく)ありしも戦後再び舊状(きゅうじょう)に復し業況益好調を極む斯る折柄嘼(きゅう)京橋青物市場蹟記念碑建設の議起り期成会を組織して之が實現に努め漸くその工を竣(お)えたり依ってここにその由来を記し開設以来二百八十餘年の歴史を回顧し其(その)盛時を偲(しの)ぶたよりとなす
昭和三十四年六月 藤浦富太郎撰 江川碧譚書
中央区観光検定の、記念すべき第1回(平成21年実施)では、以下のような問題が出されました。
『江戸時代から関東大震災まで、京橋北西詰の河岸地には野菜の荷揚場があり、江戸市中の住民に新鮮な野菜を提供していました。
この市場の正式名称は、「京橋( )河岸青物市場」といいますが、( )に入る正しい名称はなんでしょう。』
・・・4択の正解は 大根 です。上にも記しましたとおり、「だいこん」ではなく「だいこ」と読みます。
続く翌年の第2回では、以下のような設問がありました。
『関東大震災の影響で築地に移転するまで、京橋川西詰の河岸地には大根を中心とした荷揚場がありました。
現在、この場所には「京橋大根河岸( )市場」の石碑が建てられています。
( )内に当てはまる語句はどれでしょう。』
・・・4択の正解は 青物 でした。
京橋と京橋川
同じく京橋3ー4先にあります説明板です。
京橋と京橋川
京橋
名称の由来について『新撰東京名所図会(ずえ)』では「京橋川に架する橋にして、日本橋、江戸橋に対して名けたるものなり」とあり、また、日本橋から東海道を通って京へと向う最初の橋にあたることから名付けられたともされる。
橋の創架については様々な説があり明らかではないが、『京橋区史』によると「京橋は古来より其(そ)の名著はる(あらわる?)。創架の年は慶長年間なるが如し(ごとし)」とある。
また、『新撰東京図会』には「創建は詳らか(つまびらか)ならされとも。其の年月は日本橋と大差なかるべし」とあるので、この橋は慶長年間(1596~1615年)に初めて架けられたと考えられる。
京橋は、幾度か架け替えが行われ、明治8年(1875年)には橋長11間(約19.8m)幅員8間(約14.4m)の石造アーチ橋に架け替えられた。
その後、市区改正事業に伴い明治34年(1901年)に橋長、幅員共に10間(約18m)の鉄橋となった。
この橋は大正11年(1923年)の拡幅工事により架け替えられ、昭和4年(1929年)にも架け替えが行われたが、昭和38~40年の京橋川埋め立てに伴い撤去された。
なお、京橋の親柱は明治8年のものが橋北詰め東側に保存されている。
京橋川
外濠から北紺屋(こんや)町(現在の八重洲2丁目)と南紺屋町(現在の銀座1丁目)との間に分かれて左に流れ、白魚橋(しらうおばし)先で楓川(もみじがわ)、桜川(八丁堀)・三十間堀(さんじっけんぼり)と合流した。
延長0.6km。江戸時代には、比丘尼(びくに)橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かる。
その開削年代は詳らかではないが、家康の江戸入り後、慶長年間(1596~1615年)に行われた最初の天下普請(てんかぶしん)で外濠とともに開削された水路であるとされる。
比丘尼橋と中之橋間の左岸には薪河岸(まきがし)、中之橋と京橋間の左岸には大根河岸、京橋と白魚橋間の左岸には竹河岸、右岸には白魚河岸があった。
京橋川は昭和38~40年に埋め立てられて、屋上に東京高速道路株式会社の自動車道路がある細長いビルにかわった。
現在、自動車道路の下は飲食店や駐車場になっている。
中央通りと交差する京橋跡には「京橋大根河岸青物市場跡」と「江戸歌舞伎発祥の地」の碑(京橋3丁目4番先)、京橋の親柱(京橋3丁目5番先・銀座1丁目2番先・11番先)と「煉瓦銀座の碑」(銀座1丁目11番地先)が建っている。
大根河岸
大根河岸は、数寄屋橋辺りに形成されていた青物市場が火災に逢った後、水運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したことに始まるとされる。
この河岸地では、大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれて大変なにぎわいを見せていた。
しかし、大正12年(1923年)の関東大震災の後に中央卸売市場が築地に完成したことにより、大根河岸も昭和10年(1935年)に移転した。
なお、この地にある「京橋大根河岸青物市場跡」の碑は京橋大根河岸会会員により昭和34年(1959年)に建立されたものである。
白魚河岸
京橋の西沿岸に設けられた河岸で、享保年間(1716~1736年)南方に設けられた白魚屋敷にちなんで白魚河岸と呼ばれていた。
薪河岸
京橋川の北西沿岸の比丘尼橋と中之橋との間にある河岸地で、薪炭を扱う問屋が立ち並んでいたことから呼ばれた。
竹河岸
竹河岸は、京橋川の北東沿岸の京橋と白魚橋間にある河岸地で、竹商人が多くいたことから里俗(りぞく:その土地のならわし)で呼ばれていた。
竹の多くは、千葉県から高瀬舟(木造の川船の一種)に載せて京橋に入って来たものや、群馬県から筏(いかだ)に組んで送ったものであるという。
青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、その光景は目にさわやかな風物詩であった。
ブールミッシュ 銀座本店
銀座1-2-3
「江戸歌舞伎発祥の地」碑、「京橋大根河岸青物市場跡」碑、「京橋と京橋川」説明板のあるところと、「京橋の親柱」説明板の間に位置します。
このブログで何度もご紹介させていただいておりますブールミッシュさんです。
フランス菓子を基調とした新しい洋菓子文化の創造を目指します。
今年3月、創業50周年を迎えました。
お店のネーム「ブールミッシュ」の由来は「ブールバール・サンミッシェル(サンミッシェル大通り)」を縮めた呼び名で、通りの小粋なニックネームです。
店主の取締役会長 吉田菊次郎氏は若い頃パリでの製菓修行中、サンミッシェル大通りの近くに住んでいた、とのこと。
小粋な洋菓子店に小粋なネーム、ですね。
京橋の親柱(3基のうち、説明板付き)
銀座1-2先
「京橋の親柱」、残されています3基のうちの1基、「きやうはし」と書かれた擬宝珠付きです。
この親柱だけ、説明板が付いています。
右の建物は交番です。
京橋の親柱
ー 京橋に残る 3基の石造親柱 ー
京橋の創建は、慶長8年(1603年)に架けられたといわれている。
江戸時代は木橋だったが、明治8年(1875年)に石造アーチ橋、明治34年には鉄橋となった。
大正11年(1922年)に拡張工事が行われてアール・デコ様式の橋に架け替えられ、昭和38年(1963年)~40年にかけての京橋川の埋め立てに伴って撤去された。
現在、中央通りの歩道に石造親柱が3基残されている。このうち、擬宝珠(ぎぼし)のある2基の親柱は明治8年にアーチ橋になったときのもので、詩人の佐々木支陰による、「京橋」と「きやうはし」に橋名があそれぞれに彫られている。
(後略)
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
京橋の親柱
京橋は、慶長8年(1603年)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。
昭和38年から40年にかけての京橋川の埋め立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱2基と。石およびコンクリート造の親柱1基が残されています。
このうち、1基の石造親柱は、明治8年(1875年)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。
江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。
また、石およびコンクリート造の親柱は、大正11年(1922年)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。
照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きようはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。
明治・大正と2つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
平成23年実施の中央区観光検定第3回では、以下のような問題が出題されました。
『「京橋」の親柱は3基現存しており、そのうちの2基には、詩人の佐々木支陰が書いた文字が刻まれています。
一つは「京橋」ですが、もう一つの柱には何と書かれているでしょう。』
・・・4択の正解は きやうはし です。
京橋の親柱(3基のうち、2基目)
京橋3ー5先
また京橋3丁目に入っています。
「京橋の親柱」、3基のうちの「京橋」と書かれた擬宝珠付きです。
擬宝珠のついていない、あと1基は「煉瓦銀座之碑(れんがぎんざのひ)」の隣りにあります。
ですから、そちらは煉瓦銀座之碑とともに次回、第11回にてご紹介させていただきます。
【京橋の親柱の右側にあります説明板には、以下のように記されています。】
京橋は古来より其(そ)の名著しる。創架乃年は慶長年間(※1)なるの如し。明暦以降屡々(しばしば)架換へらし大正11年(1922年)末現橋に改築せしる。此(こ)の橋柱は明治8年(1875年)石造り架換へられたる時乃擬寶珠(ぎぼし ※2)欄干の親柱をして橋名の書は明治の詩人、佐々木支陰乃揮毫(きごう ※3)す係るものなり。
昭和13年5月
※1 慶長年間 = 1596年~1614年
※2 擬寶珠 通常「擬宝珠」と書く。この場合は親柱の上部の飾りのこと。
※3 揮毫 文字や書画を書くこと。
ウオーキングツアーのご案内
中央区観光協会主催の、見どころ満載のウオーキングツアーがございます。
お客様専属の観光おもてなしスタッフによりますプライベートツアーです。
日本語では「人形町まち歩きツアー」「銀座まち歩きツアー」「日本橋まち歩きツアー」「築地・明石町まち歩きツアー」「佃・月島まち歩きツアー」の5コース。
また「銀座まち歩きツアー」には、英語でご案内するツアーもございます。
開催日によっては、ロズマリもガイドとして控えています。
なお、今回ご紹介させていただきました「江戸歌舞伎発祥の地(碑)」「大根河岸」「竹河岸」はともに、全コース中の「銀座まち歩きツアー」の行程となっております。
また「京橋川」「白魚河岸」「薪河岸」「京橋の親柱」につきましても、説明させていただく可能性大です。
※ 予告なく見学できない場合もございます。
詳細はこちらをご覧ください。
⇒ https://ippondo.chuocity.tokyo/collections/all_tours
ブールミッシュさんは上の地図上の左やや上部、☆マークのところです。
「京橋と京橋川」説明板はその☆マークの左の青い〇、「江戸歌舞伎発祥の地」碑はその丸の下、「京橋大根河岸青物市場跡」碑は更にその下に表示されています。
「京橋の親柱」☆マークの右に1基、左に1基、黄色の四角マークで表しています。
もう1基の親柱と「煉瓦銀座之碑」、次回第11回でご紹介させていただきますのは、☆マークの上の緑色の四角マークのところです。
上の銀座全図の上部、赤いラインのところを今回は進みました。