日枝神社の象山車
奇数年となる2023年は神田祭りが本祭りの年で、5月中旬に4年ぶりに賑やかにお祭りが行われましたね。山王祭と神田祭は、氏子の負担軽減のため、天和元(1681)年以降は、1年ごとに交代で行われるようになりました。現在、西暦の偶数年に「山王祭」、西暦の奇数年に「神田祭」が行われています。この両祭りは天下祭りとして将軍の上欄に供され江戸城内に入ることが許されていました。
6月になり山王の日枝神社では例祭が行われていたので、お参りに行ってきました。
境内には中央区の企業である清水建設株式会社と高島屋日本橋店により奉納された「象山車」が、初披露されていました。
来年の本祭の際には神幸祭に登場することでしょう、今から楽しみです!
一之宮、二之宮、三之宮
一之宮から三之宮も飾られていました。
鳳輦(ほうれん)は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を意味する言葉で、日本においては、古くから、天皇の正式な乗り物を意味します。
神輿は、日本の神社の社殿を小型化した形で神様がお乗りになるためのものであるのに対し、鳳輦は台の上に4本の柱と屋根があるかたちになっていて、「人が乗って移動する車」という、もともとの用途に適した形態となっています。
江戸時代の象
江戸時代中期(1728年)に8台将軍徳川吉宗の命によりベトナムから象が輸入されました。
象は長崎から歩いて江戸まで来るのですが、京都では従四位の位階を授けられ中御門天皇に拝謁したそうです。
箱根の山を越える際には相当にバテていたそうで、関所の役人たちも大慌てで好物の饅頭や蜜柑を与えたとの記録が残っています。
この図は将軍に拝謁する姿を(1729年)明治になってから描いたものです。江戸時代には将軍に関することを描くことは畏れ多いこととして控えられていたそうです。
江戸時代の山王祭の象山車
こちらの図は江戸名所図会(えどめいしょずえ)で、江戸時代後期の天保年間、斎藤月岑が7巻20冊で刊行した江戸の地誌となります。
その中で山王祭を描いた箇所になり、東京ダンボが其の二、其の三を繋げさせていただきました。
右側の赤丸の所に象山車の姿が描かれています。
拡大してよく見ると、象の足の部分から人間の足が出ていることが見えますね。4人の人が中に入って支えながらパレードしていたのでしょう。大変なことだったと思います。
今回の象山車には足にタイヤがついていました。
江戸城への「練り込み」は、半蔵門から入りましたが、象の曳物は大きくて半蔵門を半分しか入らず、半「象」門といった洒落もあったようです。
象さんのその後
象は浜離宮で過ごした後、1741年に中野に移され、1743年に亡くなったそうです。日本に来た時には7歳〜8歳程度だったそうで、21歳で亡くなったことになります。象としては短命なのでしょう。
詳しくは小江戸板橋さんが書かれた「江戸の街にゾウが来た。」にとてもよくまとめられていますので、こちらをぜひご覧ください。