隅田の花火

山と川・彦乃と夢二

晝日中(ひるひなか)一石橋にたちつくし何を眺むる男なるらむ


この歌は、大正時代に、ある男性により詠まれたものです。

竹久夢二。

最愛の女性に会えなくなってしまった彼は、人生の迷い子となってしまった、ということなのか、その時に詠まれた歌なのです。

 山と川・彦乃と夢二

竹久夢二の短歌集・『山へよする』より

遠く、三越の新館臨むことのできる日本橋川の上。水辺を眺め、何かをたづねるかのように立ち尽くすのは夢二なのか?。手前には、一石橋の『迷い子のしるべ石』が見えています。

江戸時代、迷い子を探す為の連絡板として機能していたこの石標も、さすがに彼の悩みを解決することはできなかったと思われます。

夢二は、この石がとても好きだったそうです。いずれ、無くなってしまうのだろうと嘆いていたようなのですが、幸い、100年後の今もこの一石橋に残っています。

 『迷い子のしるべ石』の記事 ⇒こちら


ところで、この夢二を悩ませ続けたのは誰なのかと言うと、『笠井彦乃』さんという日本橋育ちの女性。一般的には「夢二最愛の女性」と紹介されるのですが、夢二と出逢って数年でこの世を去ってしまったことから、夢二にとっての「永遠の女性」となってしまった方なのです。

 山と川・彦乃と夢二

本銀通りのオカメ桜(2023/03)

この彦乃さんは、日本橋の「本銀(ほんしろがね)町」にあった紙問屋の一人娘で、言わば下町娘的なお嬢様。絵を描くことを志していた彼女は、呉服町に開店したばかりの夢二のお店・港屋絵草紙店を「絵を見てもらいたい」と訪ねました。彦乃さん19歳、夢二30歳、大正3年の秋のことです。

港屋絵草紙店までは、歩いて10分程の距離。夢二ファンだったこの女学生は、惜しげなく港屋に通いましたが、夢二も近くの鎌倉河岸辺りに越してきたことから、港屋裏手の一石橋や常磐橋辺りが逢瀬の場所となり、次第に親密な関係になっていきました。

 山と川・彦乃と夢二

右側に見えるのが一石橋

しかし、婿を迎えて店を継ぐことを期待され、フィアンセもいた彼女。当時はまだ自由恋愛など許されることが難しい時代でしたから、父親の大きな反対にあって、隠れながらの夢二との交際となってしまったのです。

この2人の恋愛模様は、手紙のやり取りや日記の中にたくさん残されています。特に、夢二が京都に引っ越してしまって、日本橋・京都間の「東海道を跨ぐ」遠距離恋愛になった時には、父親にバレないように、彦乃さんを「山」、夢二を「川」と呼び合ってまで文通を続けました。よくある遠距離恋愛の心のすれ違いや、どうしようもない不安、といった心の機微の記録が残っているんですね。

それら残された文章を元に2人の関係が研究された本を読んでみると、出逢いから永遠の離別まで、どこかにある小説物語のようなドラマチックな出来事が続いたということが分かるのです。

夢二の最も幸せな時と哀しい時

なつかしき娘とばかり思ひしをいつか哀しき戀人となる

夢二はよく「恋多き画家」と言われるのですが、彼が出逢った女性の中で、彦乃さんの違っていた所は、はじめに彼女のほうが夢二を好きになったという所。ひと回りくらいの歳の差があったので、夢二は少しためらったりすることもあったのですが、彦乃さんはひたすら夢二について行こうとするんですね。おそらく、自分が欲する無限の可能性を夢二の中に感じていたのでしょう。

●絵を見てほしいと港屋の夢二に会いに行く
  →相思相愛の仲となる。
⇩⇩
●夢二が下落合に越しても
  →惜しげなく通う
⇩⇩
●父親の反対があり外出禁止となっても
  →周りを味方につけて夢二と文通を続ける
⇩⇩
●夢二が前妻のたまきさんから逃げるように京都で暮らすようになっても
  →父を偽り、夢二と暮らすため京都に行く

 

京都で暮らし、金沢を訪れた大正6年の秋頃が二人の一番幸せな時代だったようです。


夢さんはいつまでたっても好きな人だと思った。好きな人よりもはなれられない人だと思った。あたりまへに結婚しておとなしい良人におとなしくつかへて居る女よりも、そして男から肉をほしいままにされるよりも 私はどんなに幸福だか知れやしない。
(彦乃の日記 1917(大正6)年10月13日)

 

彼女の凄い所は、夢二の側にいる傍ら、「絵を描きたい」という彼女自身の夢を持ち続けて、きちんとした作品を残したという所。そして、籍を入れていないのにもかかわらず、前妻たまきさんの子「チコちゃん」こと不二彦の面倒をきちんと見た、という所でしょうか。

 山と川・彦乃と夢二

宇野の山(現・玉野市)『山へよする』より


しかしこの後、彼女は病に冒されて、だんだん夢二についてゆけなくなってしまうんです。


●父が京都に現れ、彼女は東京に連れ戻される
  →1月半後に夢二の元に戻る。そして短期間で「あじさいの女」を描き上げる
⇩⇩
●夢二が長崎にスケッチ旅行に行くと
  →病が癒えぬも、あとから出発
⇩⇩
●なんとか別府まで来るが
  →長崎へは行けず、そこで入院
⇩⇩
●彦乃さん京都の病院で監視下に
  →夢二、彼女に自由に会えなくなる
⇩⇩
●父が京都に来る
  →夢二、階段から2度も突き落とされる
⇩⇩
●夢二、彼女に会えなくなり、東京で生活を始める

 

会えなくなった大正7年の秋、途方に暮れていた夢二は東京に戻り、初めて彦乃さんの日記を読みます。その時、思っていた以上に自分が愛されていたことに気づいて、何かを思い立ったのか、とんでもない本を書き始めます。

 山と川・彦乃と夢二

『山へよする』

この本は、一見、何の変哲も無い短歌集なのですが、おそらく彼と彼女にしか分からない、掛け替えのない2人だけの思い出が、短歌や挿絵の中に散りばめられています。「山」とは、そう、彦乃さんのこと。夢二が彦乃さんのために書いた本なのです。

このような本が発刊されてしまうということ自体がとても驚きなのですが、ページをめくってみると、今の中央区での思い出も数多く記されていることに気づきます。

 山と川・彦乃と夢二

堀留河岸・遠くに見えるのは椙森の社か

堀どめの水に映りし星よりもなほ遥かなる君とこそおもへ

築地なるルカ病院の窓の灯を數へつゝゆきし夏は來りぬ

 山と川・彦乃と夢二

常磐橋(旧常盤橋)

思出を悲しきものに誰ぞやせし一石橋のしるべ石はも

銀座なる街の柳は芽ぐむとも昔の人にまた逢はめやも

 


後記
「山へよする」一篇は、千九百十四年十月より千九百十八年十二月まで五年間に渉るHEとSHEとの戀の記述である。また彼等の愛の祈りである。
大方は最近数週日の間に書いたもので、挿絵はある読者のために書き添へたもので、ある感覚の説明に過ぎない。
この本の為めに、序の歌を恵まれた伊藤・茅野・與謝野三夫人のあつい心添へに感謝の念を捧げつゝ
千九百十八年十二月二十五日夜
東京中野にて 竹久夢二誌


この本を書き上げたクリスマスの頃、彦乃さんは東京に戻ってきて、順天堂医院に入院します。一方、夢二の傑作と言われる「黒船屋」はこの頃に描かれたのだとか。

そして年が明けて、「山へよする」は世に出ました。

しかし夢二は面会を許されず、たやすく会うことができませんでしたから、この本が彼女の手に渡ったのかは分かっていません。

夢二が渾身の思いを込めて書いたこのラストレター。2人の生きた軌跡が刻まれた彼女にとっての青春のアルバム。おそらくですが、彦乃さんは読んでくれたのだと思います。そして喜んでくれたのだと思います。

でも、もしかしたら悲しんでしまったのでは?

いや、夢二と彦乃さんは共に芸術家。夢二がこの作品を作るのにどれだけ大変だったか、どれだけ気持ちを込めたかについて、彦乃さんは理解できたはず。喜んだに違いありません。

 

約1年後、彦乃さん病没。享年23歳と9ヶ月。

 山と川・彦乃と夢二

NDLイメージバンクより

これは、彦乃さん没後に初めて夢二が描いたと言われる『長崎十二景・灯籠流し』という作品。浴衣の網代模様は彦乃さんを表すのだそうです。「山へよする」の表紙もこの模様でデザインされています。

夢二はこのあと、お葉さんとの生活が始まるのですが、彦乃さんの面影を忘れることはなく山を愛するようになり、山が描かれる作品が多くなっていきます。

夢二と隅田川

最後に、私は隅田川が好きなので、夢二と隅田川について。

同じ「画家」として、夢二は彼女に自分の芸術論をよく語るのですが、2人で東京駅から柳橋の料亭に来た時に、なんと雨の隅田川を眺めながら語っているのです。おそらく、そういう話を彼女にできたことがよほど嬉しかったのでしょう。その内容が日記に細かく記されています。

私も共感するところがあり、そのままの形でご紹介してみることに致します。

 

一蝶(いつてふ)もかゝる寂しき夕暮の隅田の川の雨やききけむ

 山と川・彦乃と夢二

柳橋(奥に見えるのが両国橋)『山へよする』より

『・・・・・・(略)
「柳橋にゆかうか」「えゝー」俥で出かけた。Kはさつま下駄をはいてゐる。雨で外は見えないが幌の中から常盤橋を渡つたことゝ日本銀行のわきを通つたことはわかつた。柳橋を渡つて橋のたもとに俥をつけさせた。
入口のちいさい室、河は濁つてゐる。
「隅田川をはじめてみるやうな気がするよ 天才はいつでも何をでもはじめて見るやうな心持で見るんだ。そして痛いほどふれるんだ。」
「あれが都鳥だね」「えゝ・・・・・・大きのもゐるのね」「昔、業平も見たんだね。今の隅田川には大根の葉っぱばかり流れてゐるね、でも大根の葉つぱが流れてゐるからつて必ずしも隅田川をかくとき大根の葉を入れる必要はないさ。人間は汚いものつらいものにはくたびれてゐる、うつくしい、のどかなものにこがれてゐるんだ。それを見せてやるのが芸術家なんだ。
でも隅田川をかならずしも藍色に描かなくても好いのさ、黄色にかいても好い。だがかけた椀や 大根の葉を浮かせなくても好い。必ずしも都鳥を入れないでもあの小蒸気船でも好いね。
昔から流れてゐるこの川 東京のこの川、東京に長くゐるとちつとも珍しいとおもはないがほんとによく見てごらん この川は好い川だよ、そしてあのずつしりとした橋 静かにゆく舟 今日初めて見る心持、さうだ 人類の世界を見おろした心持のこの瞬間が尊い。
・・・・・・(略)」
1915(大正4)年12月17日 夢二日記
  ※K・・・・・・笠井彦乃のこと

 山と川・彦乃と夢二

隅田川と両国橋(柳橋の昔の料亭前辺りから)

<参考にした情報>
★『夢二を変えた女(ひと) 笠井彦乃』坂原冨美代/論創社/2016
★『第2回特別展「夢二永遠の女(ひと)笠井彦乃」展示図録』中央区教育委員会・中央区郷土天文館/2007
★『山へよする』竹久夢二/新潮社/1919
★『出帆』竹久夢二著/末國善己解説/作品社/2022
★『夢二日記1(明40~大4年)』竹久夢二著/長田幹雄編 /筑摩書房/1987
★『夢二日記2(大正5〜7年)』竹久夢二著/長田幹雄編 /筑摩書房/1987
★『国立国会図書館NDLイメージバンク』
   (https://rnavi.ndl.go.jp/imagebank/)

<夢二関連の記事>
 ★港屋絵草紙店 →こちら
 ★宵待草 →こちら