まるでコロナ!?だんぼ風と駱駝(両国広小路)
『名所江戸百景 両国橋大川ばた』歌川広重 国立国会図書館デジタルコレクション
明暦の大火以前、江戸の防御のため隅田川には千住大橋以外に橋はかかっていませんでした。橋がなかったばかりに明暦の大火で逃げ場を失った多くの人が亡くなりました。その数10万人以上。そのような惨事が二度と起きないようにかけられたのが両国橋です。橋が火災によって消失することがないよう橋の両側の橋詰には建物のない広場をつくり火除地としました。
日本橋の商業エリアと本所・深川の職人町を結ぶ両国橋は1日に4~5万人の往来があったと言われています。広小路には盛り場が形成されて繁華街になっていきました。
両国橋を渡って往来する人は仕事の人ばかりではありません。広小路の飲食店や見世物などを目当てにやってくる人もたくさんいました。上の浮世絵の手前側が両国広小路西詰になります。川べりによしず張りの簡素な店が並んでいるのがわかります。広小路は火除地であったので常設の店舗は許されず、いざというときは短時間で片づけられる仮設の床見世や露店での営業でした。ここには軽業や浄瑠璃などをみせる見世物小屋、髪結い床や水茶屋などが立ち並び、寿司、てんぷら、蕎麦などの屋台、大道芸人も多く集まったと言います。
特に橋の東の回向院で御開帳などがあると回向院にお参りして東西の広小路で見世物のはしごをし、健脚な人は浅草寺の奥山まで足をのばし大道芸を楽しんだといいます。
まるでコロナ!?文政4年の「だんぼ風」
江戸の町では痘瘡や麻疹などの病気がしょっちゅう流行りをくりかえしていました。しかし、文政4年(1821)2月のだんぼ風(だんぼう風)は昨今のコロナのような危険な流行をみせました。胸や腹のさしこむような痛み、咳、戦慄が主症状の風邪で小児や老人は軽症ですが24、5歳~50歳くらいの人が重症で死に至る怖い病気だったそうです。江戸の職人、小商人は日銭稼ぎの人が多く、仕事が何日もできなかったらたちまち困窮する事態に。そこで棒手振(天秤棒で魚や野菜などの商品をなどをかついで売り歩く人)など肉体労働で生計を立てる約30万人の人に給付金が支給されたそうです。当時の江戸の町方の人口が60万人弱だったのでかなり多くの人が感染したということになります。しかも、同時期に子どもに疱瘡も流行。また前年からの引き続きで3月まで麻疹も流行。というトリプルパンチ。文政4年は疫病で散々な年でした。吉原でも麻疹やだんぼ風が流行り一同の申し合わせで21日間の休業。歌舞伎も幕を開けても観客が少なく、銭湯と髪結床は営業していても閑古鳥がないている状況だったそうです。コロナ大流行時と同じような状況ですね。ちなみに「だんぼ風」のだんぼとは何か。一説によるとこの頃越後国で起こった流行の囃子が「だんぼさん、だんぼさん」と言ったことにちなんでいるとか。
そんな疫病の年にオランダ船に乗って長崎につがいのヒトコブ駱駝がやってきました。
疫病流行と駱駝の見世物
到着した駱駝をオランダ商館長が入手し幕府へ献上しようとしましたが断られ、興行師の手にわたり全国を巡回することになったのです。
文政6年に大阪、京都で文政7年に伊勢で興行し中山道でいよいよ江戸に来るということで人々の期待は高まります。なにせ「異国の珍獣」は「ご利益」があると言われているのですから。
ちなみに・駱駝の絵をはっておいて見ることで痘瘡麻疹悪病除けができる。・駱駝の絵をはっておくことで雷除けになる。・駱駝の尿が起死救命の薬にもなると盛沢山のご利益がありました。
文政7年頃は疫病は落ち着いてきて人々は遊びにも出たくなっていました。この感覚は今の私たちにはよくわかりますね。しかも疫病の記憶は新しいので珍しい駱駝を見ることでご利益がえられ病気を防げるならばいうことがないという感じでしょうね。
首を長くして待っていた人々は江戸到着の板橋からすでに大騒ぎ、少しでも早く見たいと板橋まで多くの人が押し掛けたことを板橋に住んでいた俳諧師匠の加藤曳尾庵(かとうえいびあん)は随筆『我衣』で書いてています。板橋宿平尾の脇本陣、平尾の名主である豊田家の奥庭でぬけがけで駱駝を見物できたそうです。「さすりてみるに毛せんなどへさわるよふなり」とあるので触れることができたようです。話はそれますが、平尾の豊田家は新選組の近藤勇が新政府軍につかまり幽閉されていた場所です。「板橋宿平尾脇本陣豊田家跡」の説明板に駱駝のことも書いてあります。
さあ、いよいよ両国広小路での駱駝興行が始まります。
両国広小路での駱駝興行
両国広小路での駱駝見物の入場料は1人32文。日に5千人を超えることもある人気ぶり。
上の駱駝の絵は実は右側にもう1枚あります。著作権の都合上のせられませんでした。右側には背中に横笛を吹く人を乗せ首を地面に下げて大根の葉を食べている駱駝が描かれています。この絵では大根の葉ですが白い部分も好んで食べたようです。観客は大根、薩摩芋、茄子などを一切れ4文~6文で買い餌やり体験もできたそうです。駱駝は牛などと同じように食べて胃にいれたものを口に戻して反芻します。もぐもぐと反芻する様子を見せるために穀物を与えずに野菜ばかり食べさせて空腹にさせていたという話も見ました。もぐもぐしている姿はかわいらしいので見たい気持ちはありますがお腹がすいているのはかわいそうですね。
駱駝の周りにいる興行の人たちは唐人の姿をした日本人です。顔にメイクもして外国人らしい雰囲気にしているようです。駱駝と中国は関係なくてもなんとなく異国の雰囲気をだすのに唐人の衣装を着ていたのでしょう。横笛、太鼓、トライアングル(鉄鼓)をにぎやかに鳴らしながら場内を回って観客にみせたそうです。駱駝は派手な芸をすることもなく、ゆったりと歩くだけなので見世物としては鉦や太鼓の鳴り物でもりあげることが必要だったのでしょう。特にトライアングルは日本ではなじみのないものだったので異国情緒をもりあげるのに役立ったことでしょう。
上の「駱駝之図」は駱駝の興行が始まるタイミングに合わせて出版されてたものです。絵だけでなくびっしり描かれている文章には駱駝のが重い荷物を背負って長距離歩くこと、性格が柔和で牝牡仲睦まじいこと、長寿であること、駱駝のご利益、ヒトコブラクダとフタコブラクダの違いなど興味をひく説明が書かれています。見世物小屋や絵草紙店で売られました。これは欲しいです。まだ見たこともない人も是非行ってみたくなる錦絵になっています。
ご利益があるお札替わりの駱駝の絵のほかに駱駝グッズもたくさん販売されました。猿猴庵の『絵本駱駝具誌』には名古屋に駱駝興行が来た時の様子と販売されたグッズが絵入りで紹介されています。名古屋の話なので両国で全く同じものが売られたかはわかりませんが参考に書いておきます。
・見世物絵(浮世絵、引き札)・駱駝のこぶの形の櫛・駱駝の人形・雛人形(これは現在の変わり雛のような感じです。唐人姿の人と駱駝が並んでいるものです。十軒店で売られたと記されています)・駱駝を描いた扇子・煙草入れ・駱駝雙六・駱駝凧・駱駝水入れなど。
両国広小路での興行は日延べを繰り返し、半年以上のロングランになりました。興行収入は2千両になったということです。
駱駝のその後
江戸をでた後も金沢、名古屋、再び大阪、広島、などを回り天保4(1833)年の春に駱駝は再び両国広小路に戻ってきました。この間約10年。戻ってきた駱駝は1頭だけになっていました。両国広小路のあと天保4年の間に数か所で興行しているようですがその後記録がとぎれます。2頭で夫婦仲良く見えてほほえましかった駱駝が1頭だけになってしまい両国広小路での熱狂的な再ブレイクとはならなかったのかもしれません。
最後に当時「新内節の小唄」でうたわれた駱駝に関する歌をのせておきます。見世物にされる悲哀を感じる歌です。
「天竺いでてこの国へ来たはおととし春の頃、献上の身となりもたせで、つらい山師の手にかかり、むさしの果ての両国や、日には幾たび引きだされ、らくだ処が苦の世界、
遠いくにからはるばると、人目かまわぬ夫婦づれ、よれつもつれつ三折のあしに任せて、あずまじゃ隅田のほとりの仮住居、太鼓や鉦に浮さるるほんにらくだいやないかいな、
恨めしや浅ましやつらいせけんに欺されて、今は苦界の憂きつとめ、水に縁ある川たけの両国橋の河原とや、しみずもやらぬ起臥の儘ならぬ世はぜひもなき、ほんに涙の雨やさめ、傾城の身も我とても牛や轡といふからは、おなし務とおもわんせ。」
両国広小路跡の碑
【最寄り駅】JR馬喰町駅 都営地下鉄東日本橋駅
【参考文献】
『江戸の盛り場・考』竹内誠 教育出版
『江戸の見世物』川添裕 岩波新書
『江戸にラクダがやって来た』川添裕 岩波書店
『笑って泣いて日が暮れてー江戸叢書の町びとたち』大野光政 本の泉社
『絵本駱駝具誌』名古屋市立博物館