「祈りの幕が下りる時」
キーとなる12の橋、ご紹介します ④
ー 4月 常盤橋 ー
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
『映画「祈りの幕が下りる時」 キーとなる12の橋、ご紹介します』シリーズ、今回は第4回、常盤橋(ときわばし)をご紹介します。
このシリーズは映画「祈りの幕が下りる時」に登場しました橋、キーとなる12の橋を、月ごとにご紹介してまいります。
しかし今回は既に5月に入ってしまいましたね。諸事情により4月掲載が叶いませんでした。申し訳ございません。
それでは・・・
常磐橋(ときわばし:石橋)
※ 「常磐」と「常盤」、書き記されていますとおりにご紹介します。
常盤橋門は、江戸時代を通じて度重なる火災や地震で損傷を受け、大規模改築は3回実施されました。
刑事以後、堀に架かっていた木橋は、1877年(明治10年)に石橋に架け替えられました。
以後、石橋を指す漢字として「常磐橋」が使用されるようになりました。
その後、関東大震災で被災し崩落の危険がありましたが、市民団体を中心に存置が呼びかけられ、国史跡に指定された後、復旧整備が行われました。
2011年(平成23年)の東日本大震災では、桝形(ますがた)石垣や常磐橋(石橋)が甚大な被害を受け、翌2012年(平成24年)から2020年(令和2年)まで、区は枡形石垣と石橋の修理事業を行いました。
修理事業における調査では、現在の状況や過去の修理状況、旧小石川門の石材を転用して基礎を建造していた等の知見を得られました。
この「祈りの幕が下りる時」というドラマは、小説では『時は金なり常盤橋』という言葉を、松宮脩平刑事がいとこの加賀恭一郎刑事の前で発したことが、事件解決の糸口となりました。
ある女性の死体の発見された現場の部屋にあったカレンダーの、日本橋の12の橋の書き込み、それが加賀刑事の母の遺品のメモの内容と一致していたこと、これに加賀刑事が気づいたからです。
ここから一連の事件が解明に向かって動き出した、と言っても過言ではありません。
そういった意味では、「祈りの幕が下りる時」の中で、常盤橋もとても重要なキーワードとなっています。
常盤橋門(ときわばしもん)
常盤橋門は、1629年(寛永6年)に出羽・陸奥の大名によって築造されました。
門は、江戸城諸門の中でも奥州道中につながる江戸五口の一つで、浅草口、追手(大手)口とも呼ばれました。
江戸城内郭の正門である大手門に接続することから、軍事上重要な門に位置付けられました。
門の構造は、内枡形門形式の枡形門で、北側に渡櫓(わたりやぐら:城郭の桝形に設けたやぐら)とそれを支える石垣があり、門をくぐった先には大番所が配置されました。
また、東側には冠木門(かぶきもん)が構えられており、それ以外の三方は土手が巡らされていました。
明治以降、常盤橋門の建物は破却されました。
残った枡形石垣の一部と1877年(明治19年)に架けられた常磐橋(石橋)、橋の石積部分は1928年(昭和3年)に国の史跡に指定されています。
国指定史跡・常盤橋門跡
ー日光道中や奥州道中に通じる出入り口ー
寛永6年(1629年)、江戸城防御のため建設された桝形門(ますがたもん)。
江戸城正面の大手門に通じる重要な外郭門(がいかくもん)で、田安門、神田橋門、半蔵門、外桜田門と並んで「江戸五口(えどごくち)」に数えられた。
浅草を経由して日光道中や奥州道中に通じる出入り口でもあったため、江戸時代には「浅草口」「大手口」などと呼ばれたこともある。
門は明治6年(1873年)に撤去された。
残った石垣も関東大震災で被害を受けたが、昭和3年(1928年)に国の史跡に指定されてから整備が進んだ。
昭和8年(1923年)には渋沢青淵翁(せいえんおう)記念会(現在の公益財団法人渋沢栄一記念財団)の尽力で、常盤橋門跡を含めた一帯は公園として公開されており、園内には渋沢栄一の銅像が立っている(千代田区大手町2ー7-2)。
門跡前には、明治10年(1877年)にそれまでの木造橋から架け替えられた洋式2連の石造アーチ橋、旧常盤橋があり、現存する東京最古の石造橋である。
この石造橋には「磐」の字を用いた「常磐橋」という名が付けられ、これは部首の「皿」が割れて縁起が悪いことからこの字にしたといわれている。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
渋沢栄一像
(千代田区・常盤橋公園内)
※ 旧字は新字に変換しました。
所在地 千代田区大手町2-7-2
青淵渋沢栄一翁は 天保十一年埼玉県の農家に生まれたが、時勢に激して志士となり 後転じて幕臣となって 慶応三年欧州に赴き 民主主義自由主義を知る機会を得た 帰朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に当たったが 明治六年退官し 同年創立された第一国立銀行の頭取となり 爾来産業経済の指導育成に任じ開興した会社五百 常に道徳経済合一主義を唱えて終生之を実践し我が国運の発展に偉大な貢献をした
また 東京市養育院等社会事業の助成一橋大学日本女子大学等実業及び女子教育の育成 協調会等による労資の協調 日華日米親善等世界平和の促進 道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで尽力し 昭和六年十一月十一日に逝去した
翁の没後 財界有力者によりその遺徳顕彰の目的で設立された渋沢青淵翁記念会が 昭和八年此処に銅像を建立したが 第二次世界大戦中金属供出のために撤去された 然るにこのたび 銅像再建の声が盛り上がり各界の有志によって 再び朝倉文夫氏に製作を依嘱し元位置にこの銅像を建て 東京都に寄付したのである
昭和三十年十一月 渋沢青淵記念財団龍門社
渋沢栄一
ー 中央区とのゆかり深い 日本資本主義の父 ー
現在、常盤橋門跡を含めた一帯は千代田区立公園となっているが、園内には日本銀行を背にして「渋沢栄一」の銅像が立っている。
日本の近代経済社会の基礎を築き、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢の功績を讃えてのことである。
渋沢栄一は、天保11年(1840年)に武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)村(現在の埼玉県深谷市血洗島)の豪農・渋沢家の長男として生まれた。
家業の農業・養蚕・藍玉の製造販売などを手伝う一方、従兄の尾高惇忠(おだかあつただ)からは『論語』をはじめとする漢籍を学んだ他、叔父からは書を、さらに従兄の渋沢新三郎からは剣術(神道無念流)を習った。
文久3年(1863年)、尊王攘夷思想の影響を受けた渋沢は、同志と共に高崎城乗っ取りを企てるも中止、京都へ向かい、そこで一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ:後に徳川慶喜)の家臣となった。
一橋家の家政改善などで実力を発揮した渋沢は、慶応3年(1867年)、15代将軍徳川慶喜の弟・徳川昭武(あきたけ:後に水戸藩主)に随行してパリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情を肌で感じることとなった。
明治元年(1868年)、明治維新により帰国すると、明治2年に設立された静岡商法会所の頭取を務め、同年には大隈重信の強い要請によって民部省の一員となった。
後に大蔵省に属して新貨条例・造幣規則や国立銀行条例の起草立案にあたるなど、新しい国づくりに深く関わった。
明治6年(1873年)に大蔵省を退官した渋沢は、日本初の銀行となる「東京第一国立銀行」の総監役(後に頭取)となり、多くの銀行創立や育成を行った。
また、渋沢は第一国立銀行を拠点に会社組織による企業の創設や育成、教育機関・社会公共事業の支援、民間外交などに尽力し、数々の功績を残している。
なお中央区内には、渋沢が創立などに関与した企業や組織(「東京株式取引所【現在の東京証券取引所】」や「聖路加国際病院」など)がある。
また、第一国立銀行に程近い、日本橋川沿いの地(日本橋兜町1ー10日証館の場所)には明治21年(1888年
)に辰野金吾設計による邸宅(関東大震災で焼失)が建てられた。
道徳経済合一説(※)の重要性を唱え、民間経済人として数多くの近代的企業の創立に関わり、指導的役割を果たしてきた渋沢は、昭和6年(1931年)11月11日に91才で生涯を閉じた。
なお令和6年(2024年)には新1万円札紙幣の肖像に採用された。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
裏河岸(うらがし)
所在地 中央区日本橋本石町1・1、日本橋室町1・1地域
明治10年(1877年)12月、東京府は「日本橋ヨリ以西 一石橋迄」の河岸地(西河岸の対岸)を「裏河岸」と命名しました。
江戸時代初期の寛永江戸図には「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川町があり、御府内沿革図書では、一石橋側を「北鞘町河岸」、日本橋側を「品川町裏河岸」としており、いくつかの俚俗(りぞく)名を確認することができます。
なお、「江戸名所図会」によると、品川町裏河岸の通りには、釘・金物の店が多く、釘店(くぎだな)とも呼ばれていたと記されています。
平成12年3月 中央区教育委員会
常盤橋
上の地図上、左上の赤丸で示しました橋です。
日本橋本石町1丁目 ー 千代田区大手町2丁目
中央区として日本橋川の最上流に位置します。
このシリーズでは、前回3月左衛門橋の記事で申し上げましたとおり、1~3月は神田川遡上、4~12月は日本橋川を下ってご紹介してまいります。
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