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関東大震災から100年~復興橋梁「三吉橋」

上の写真は、銀座ブロッサムから見た現在の「三吉橋」の写真です。「三吉橋」は、1923年(大正12年)に発生した関東大震災の復興橋梁として1929年(昭和4年)12月に竣工しました。関東大震災以前は、下図のように合引橋が架かっていて築地と新富町を結んでいました。

 関東大震災から100年~復興橋梁「三吉橋」

[複製]東京市京橋区明治44年8月 資料提供:京橋図書館(資料に川の色を青色に着色し、主要地点を加筆しました)

しかし、関東大震災後の復興事業として、下図の航空写真で分かるように、新たに復興運河の「楓川・築地川連絡運河」が開削されました。全長290m、幅33m、深さ1.8mでエンジン付きの船が運航できました。連絡運河の完成により楓川、京橋川、桜川が築地川と結ばれ、築地の中央卸売市場や汐留橋などと日本橋方面の舟運が便利になりました。

 関東大震災から100年~復興橋梁「三吉橋」

  1959年(昭和34年)頃の楓川・築地川連絡運河(画像提供:京橋図書館)(画像に主要地点を加筆しました)

連絡運河が開削され、川が三叉の形になったことによる銀座・築地・新富地区の分断を避けるために、下図のように珍しい形をしたY字型の「三吉橋」が1929年(昭和4年)12月に架けられました。形式は三股型単純鋼板桁橋で橋長は23.98m×3、有効幅員は15m(車道9.0m、歩道3m×2)です。

 関東大震災から100年~復興橋梁「三吉橋」

1930年(昭和5年)頃の三吉橋(画像提供:京橋図書館)(画像に川の方向等を加筆しました)

しかし昭和30年代になると高度成長とモータリゼーションの時代を迎え、船運は衰退し、さらに1964年(昭和39年)10月に東京オリンピックが開催されることになりました。そのため公共用地の利用を原則とし川の上の空間を利用した高速道路の建設のため1960年(昭和35年)連絡運河の埋め立てが許可され、1962年(昭和37年)12月に汐留~日本橋本町間が開通し、首都高速都心環状線になりました。説明板によると「平成4・5年にわたり、高欄には水辺に映える木立の姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、又一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。」と記載されています。現在は高速道路の騒音が響く三吉橋ですが、修景された古き風情を感じさせる三吉橋で、築地と日本橋を連絡した運河を思い浮かべながら、歴史に浸るのも良いかもしれません。

参考文献:川跡からたどる江戸・東京案内   菅原健二 

     川を知る辞典ー日本の川・世界の川 鈴木理生