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「こんぴらさん」に憧れて~
中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社をご案内します!

讃岐・金刀比羅宮から勧請され建立されたといわれている日本橋中洲の金刀比羅宮。鮮やかな赤い扁額が印象的です。

 

「こんぴらさん」として親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう)(香川県仲多度郡琴平町892-1)は、全国およそ600社ある金刀比羅神社(他に琴平神社事比羅神社金毘羅神社など)の総本宮(※)です。

江戸時代、お伊勢参りと並んで「一生に一度はこんぴら参り」として、庶民の憧れの旅先となっていた「こんぴらさん」、今年の夏休み(お盆休み)は四国旅行を計画していて、その旅程の中で、金刀比羅宮を訪ね、そのうえで中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社をご案内しようと思っていました。

しかし、8月8日に日向灘地震が発生し、「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が発表されたことから、熟慮の結果、四国旅行はやむなく中止することにしました。

そこで、今回のブログは、当初の計画は実現できませんでしたが、「こんぴらさん」への憧れは消えず、旅行前に準備をしていた中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社をご案内したいと思います。

(※)金刀比羅宮の直轄分社は全国6社のみで、東京分社・尾張分社・鳥羽分社・神戸分社・出雲分社・松山分社がそれにあたります。

讃岐・金刀比羅宮について

讃岐・金刀比羅宮について 「こんぴらさん」に憧れて~
中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社をご案内します!

金刀比羅宮はかつて讃岐国(さぬきのくに)と呼ばれていた香川県の琴平町にあります。地図は、国土地理院ウェブサイト「地理院地図 / GSI Maps|国土地理院」を使用・加工して掲載しました。

 

中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社をご案内する前に、まずは讃岐・金刀比羅宮に関する知識を深めておきたいと思います(以下、金刀比羅宮ホームページなどの要約です)。

金刀比羅宮は、香川県琴平町の象頭山(ぞうずさん)という山に鎮座する神社で、古くから農業・殖産・医薬・海上守護の神として信仰されています。

象頭山は文字どおり象の頭のような形をしていて、その特徴ある山の形から、瀬戸内海を航行する船乗りたちの格好の目印(山アテ)となり、また心の支えとなって「こんぴら信仰」(※1)が広まり、金刀比羅宮が航海安全を担う「海上守護の神」として広く知れ渡ったといわれています。

ご祭神は、大物主神(おおものぬしのかみ)崇徳天皇(すとくてんのう)です。

古代、象頭山は瀬戸内海に浮かぶ島であって、そこに大物主神が行宮(あんぐう、仮の御所)を造られ、その行宮跡にお祀りされたと伝えられています。そして、時が流れて室町時代後期、保元元年(1156)に起こった保元の乱の後、この地に配流・崩御された崇徳天皇が合祀されました。

また、金刀比羅宮はもともと琴平神社といわれていましたが、平安時代から鎌倉時代にかけて広まった「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」(※2)の影響を受け、「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」(※3)と名前を変え、歴代皇室から諸国の大名、一般庶民に至るまで幅広い信仰を集めました。

江戸幕府が滅ぶと、慶應4年(1868)3月、神仏習合が廃止され、金毘羅大権現はもとの琴平神社に戻り、同年7月には金刀比羅宮となって現在に至っています。

(※1)「こんぴら信仰」の広がりは、寛文12年(1672)に河村瑞賢(かわむらずいけん)(1618~1699)によって開発された西廻り航路の影響も大きかったといわれています。

(※2)「本地垂迹説」とは、神道の神々は仏教の仏や菩薩が化身して現れた権現であるという神仏習合の思想で、平安時代から鎌倉時代にかけて広まり、神道と仏教の調和が図られましたが、明治時代の神仏分離で衰退しました。

(※3)「金毘羅大権現」は、神道と仏教の要素が融合して存在する神仏習合の神です。もともと金毘羅(こんぴら)とは、ヒンドゥー教の神「クンビーラ」という、インドのガンジス川に住む鰐(ワニ)を神格化した川の神に由来し、「海上・漁業守護の神」として崇敬されていました。大物主神は「蛇」に化身するという言い伝えもあったことから、「蛇」=「鰐」と結びつけられたものといわれています。

中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社

それでは、ここからは中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社を実際に訪ね、ご案内したいと思います。

 「こんぴらさん」に憧れて~
中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社をご案内します!

今回ご案内する3つの神社です。新川を起点に(新川から近い順に)ご案内したいと思います。地図は、国土地理院ウェブサイト「地理院地図 / GSI Maps|国土地理院」を使用・加工して掲載しました。

 

1.新川金刀比羅神社(中央区新川2-15-14)

 

まずは、新川2丁目にある新川金刀比羅神社です。

同社は、隅田川に沿って建つ東京住友ツインビルディングと鍛冶橋通りの間の住宅街、明正通りから南側に一本入った道路沿いに鎮座しています。ちなみにその道路をはさんだ向かい側には於岩稲荷田宮神社(おいわいなりたみやじんじゃ)があります。

「『東京都神社名鑑(上巻)』東京都神社庁、昭和61年3月30日発行」によれば、由緒は「詳細不明なるも、天保年間(1830~44)讃岐本宮より武蔵国山岡吉右衛門邸にはじめて鎮座し、明治8年10月当地へ遷座する」とあり、戦後の歩みとして「東京大空襲により社殿を消失、昭和23年5月社殿木造流造を建造、その後、昭和41年8月に正面鳥居、玉垣を新設する」とあります。

そして、「宮尾しげを『東京都名所図会・京橋区之部』睦書房、昭和43年11月5日発行」では、上述の山岡氏の邸宅は越前堀1丁目4番地(現在の新川2丁目23~26番地付近)にあったが、参拝者の増加で、より広い境内を求め、越前堀1丁目10番地(現在の地、新川2丁目15番地)に遷座したと説明しています。

かつてこの地は松平越前守(まつだいらえちぜんのかみ)の屋敷であり、江戸湊として多くの船が出入りし、とりわけ新川には多くの酒問屋が集まっていました。従って、特に海上守護・殖産などにご加護のある金毘羅大権現が勧請され、越前松平家とのかかわりがあったことも想像されます。

 「こんぴらさん」に憧れて~
中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社をご案内します!

左)桜咲く春の新川金刀比羅神社、右)銀杏が色づく秋の社殿(木造流造)

 

2.琴平神社(鐵砲洲稲荷神社内)(中央区湊1-6-7)

 

次は、鐵砲洲稲荷神社にある琴平神社です。

まずは、鐵砲洲稲荷神社ですが、同社は新川から亀島川に架かる南高橋を渡って100メートルほど進んだところにある湊一丁目交差点を左折してすぐ右側に鎮座しています。

そして、琴平神社は、鐵砲洲稲荷神社の境内にある摂社・八幡神社と一緒に合祀されています。私がこのことに気づいたのは、わりと最近で、拝殿でお参りをすませ、摂社(それまではあまり摂社という感覚がなかったかもしれません…)でお参りをしようと、薄暗い建物の中に掲げられている5つの扁額をよく見てみると、その1つに「琴平神社」と書かれてあったのです。

それでは、琴平神社の沿革を鐵砲洲稲荷神社のいわれとともに「可兒弘明『中央区内神社調査書』中央区史編纂室、昭和31年8月調査」を基にご案内したいと思います。

鐵砲洲稲荷神社は、平安時代初期の承和8年(841)、当地の住民たちが「国魂神(くにたまのかみ)」を祀り、「大御親生成太神(おおみおやいなりのおおかみ)」として感謝し、日々のご守護を祈願したことが始まりです。

そして、その当時、当地が東京湾の最も奥に位置し、港として多くの船舶が出入りしていたことから、「生成太神(いなりのおおかみ)」の霊験あらたかな神徳と相まって、多くの船乗りたちから崇敬されるようになりました。

その後、埋立てが進み、京橋付近に遷座となり、さらに室町時代後期の大永年間(1521~1528)には、氏子崇敬者の願いによって、新しい海岸となった新京橋付近へ再遷座し、八町堀稲荷神社と称するようになりました。

ところが、その後も埋立てが進行し、海岸線がさらに東方へ移動したことから、寛永元年(1624)には、再び氏子崇敬者の願いにより、現在の鐵砲洲の地に遷座となり、従来から鎮座していた八幡神社(※)を摂社として、さらには琴平神社などを末社として合祀し、今の鐵砲洲稲荷神社の基礎が築かれました。

江戸時代には、米・塩・酒・薪・炭などのたいていの物資は、江戸湊といわれていたこの地に入ってきたため、鐵砲洲の生成太神は、船乗りたちの「海上守護の神」として全国に広まったのです。

一方、「こんぴら信仰」の広がりは、寛文12年(1672)に河村瑞賢によって開発された西廻り航路の影響も大きかったことは前述のとおりですが、同様に「海上守護の神」という共通のご利益・ご加護があり、この地の住民や船乗りたちの信仰にも重なり合い、琴平神社が創建・合祀されたと考えられます。
 

(※)八幡神社については、前回のブログ(新川に架かる9つの橋(シリーズ4回目:中央大橋)の「中央大橋の計画・設計」)でいわれをご紹介していますので、そちらもご覧ください。

 

 「こんぴらさん」に憧れて~
中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社をご案内します!

左上)鐵砲洲稲荷神社の境内にある摂社・八幡神社、右上)摂社内に鎮座している六柱の神様(左から天満社、三輪社・浅間社、八幡神社、琴平神社、住吉社)、右下)八幡神社と琴平神社の扁額、左下)鐵砲洲稲荷神社の拝殿(左に写っているのが摂社)

 

3.金刀比羅宮(中央区日本橋中洲11-1)

 

最後は、日本橋中洲の金刀比羅宮です。

同宮は、新川から隅田川沿いに永代橋、隅田川大橋を越えて清洲橋まで進み、清洲橋通りを清洲橋とは反対方面に100メートルほど進んだ首都高6号向島線高架下手前に鎮座しています。

境内にある記念碑によれば「中洲は江戸時代 隅田川の浮洲なりしを 明治初年に埋立て此の地に船玉琴平宮が祀られ 産業振興の神として廣く崇められたり しかし惜しくも大正十二年 関東大震災の爲に烏有に帰し 再建の機運に至らざりし處 湯淺勘次郎氏の夢枕が機縁となり 同志相諮り此の地を卜して四國琴平宮の御靈を遷座奉祀し 廣く繁榮の守護神として茲に神殿を建立し奉る」とありました。

日本橋中洲という土地柄、隅田川を往来する船乗りたちの守護神として崇敬され、またこの地は、江戸時代中期の安永年間(1773~1780)には、飲食店が建ち並ぶ大歓楽街として賑わいを見せていたことから、商家や飲食業・遊芸を職とする大衆の信仰を集めていたと考えられます。実際、同宮の玉垣には割烹や芸妓組合などの名前が刻まれていました。

また、境内には「慈愛地蔵尊」もいらっしゃり、まさに金毘羅大権現、神道と仏教の要素が融合して存在する神仏習合の神ということでしょうか。

 

 「こんぴらさん」に憧れて~
中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社をご案内します!

上)日本橋中洲の金刀比羅宮。都会の中の緑と赤い扁額とのコントラストが印象的です。玉垣には割烹や芸妓組合などの名前が刻まれていました。

下)境内にいらっしゃる慈愛地蔵尊。神仏習合の歴史のある金刀比羅宮らしい光景だと思いました。

おわりに

今回のブログは中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社ということで、新川金刀比羅神社、琴平神社(鐵砲洲稲荷神社内)、金刀比羅宮をご案内しました。

讃岐の「こんぴらさん」にお参りできなかったのはとても残念でしたが、各社・各宮において、地震や台風などの災害がない(少ない)世の中となり、またいつの日か「こんぴら参り」ができる日が訪れますようにと心を込めてお願いをしました。

9月は防災月間です。「天災は忘れた頃にやってくる」(寺田寅彦、1878~1935年)といわれますが、いまやこの日本において地震や台風はいつ来ても不思議ではありません。これは自分に対する戒めでもありますが、今回の度重なる天災で「備えよ常に(Be Prepared)」(ロバート・ベーデン- パウエル(Robert Baden-Powell)、1857~1941)という言葉を思い出し、改めて防災対策をしなければいけないなと痛感しました。

最後に、ブログ作成にあたっては、各種文献・インターネットなどを調べたり、京橋図書館・地域資料室の皆さま、さらには讃岐・金刀比羅宮の岸本庄平様、鐵砲洲稲荷神社の中川文隆様にもご協力をいただき、その内容をご紹介してきましたが、各所で私見を交えて書かせていただいたことも念のためお伝えしておきます。

今回もご協力いただきました関係者の皆さまには心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

【主な参考文献・資料など】

・守屋毅「民衆宗教史叢書 第19巻 金毘羅信仰」雄山閣出版、昭和62年7月20日発行

・北川央「近世金毘羅信仰の展開」岩田書院、2018年9月発行

・岡本哲志「川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩」PHP研究所、2017年11月29日発行

・宮尾しげを「東京都名所図会・京橋区之部」睦書房、昭和43年11月5日発行

・「東京都神社名鑑(上巻)」東京都神社庁、昭和61年3月30日発行

・可兒弘明「中央区内神社調査書」中央区史編纂室、昭和31年8月調査

・内海一紀「文京区神社誌」文京区神社総代会、昭和63年9月1日発行

金刀比羅宮ホームページ

鐵砲洲稲荷神社ホームページ

 

 「こんぴらさん」に憧れて~
中央区にある「金刀比羅」「琴平」がつく神社をご案内します!

昭和48年(1973)の金刀比羅宮の参道入口。右側に令和2年(2020)に廃止された「石段かご」も写っています。実は小学4年の夏休みに家族で「こんぴら参り」をしたことがありました。年齢がバレてしまいましたね。苦笑