べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~ 異聞 ⑪
~ 富本豊志太夫<午之助> ~

リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」第10話はいかがでしたでしょうか?
蔦重、今度は浄瑠璃の世界に繋がりを求め、その過程で元・瀬川との悲恋の続きが少しありましたね。
またテーマ選択に迷いました。
いえ、「選択肢が無い」訳ではありません、2つで迷いました、前回残した絵師の「勝川春章」か、今回の「富本節」か。
結論として前回残した分はストックとすることにしました。
今回は「富本豊志太夫(とみもととよしだゆう)<午之助(うまのすけ)>」を採り上げたいと思います。
富本豊志太夫は富本節(とみもとぶし)初代(実父:富本豊前掾【ぶぜんのじょう】)の実子。
初代亡き後、数えで11の頃(明和3年【1766年】)、幼名の午之助として中村座に出ていたとのこと。
当時の中村座は堺町、現在の日本橋人形町3丁目にありましたので、中央区との関係性は認められます。
なお、冒頭画像は日本橋室町4-2-12、家内喜(やなぎ)稲荷神社の狛狐です。
ロズマリはここでは「狐」とか「お狐さん」と呼ばずに「狛狐」と呼びます。
それでは・・・
富本豊志太夫<午之助>、富本豊前太夫、富本豊前掾は・・・

画像は東日本橋2-25-5、川上稲荷神社の狛狐です。犬っぽい狐ですね。
富本豊前太夫
宝暦4年(1755年) ー 文政5年(1822年)
浄瑠璃・富本流の太夫。
江戸の出身。初代(富本豊前掾)の実子。初名は富本午之助。
幼くして父と死別、明和3年(1766年)には中村座に富本牛之助として初出あり。
明和7年(1770年)、市村座に富本豊志太夫として初出あり。
安永6年(1777年)、2代目富本豊前太夫を襲名。
そして文化14年(1817年)、2代目富本豊前掾 藤原敬政となる。
面長な顔だったので「馬面(うまづら)豊前、馬面太夫」と言われていた。
美声であったとのこと。美しい語りと独特の節回しが人気を博した。
なお、3代目は養子をとったが、人形町の生まれであったとのこと。
豊前太夫は現在まで11代、名乗られていたが、11代は1983年に死去。
「べらぼう・・・」での富本豊志太夫<午之助>は・・・

画像は日本橋堀留町1-10-2、椙森(すぎのもり)神社の狛犬です。
寛一郎さんが演じています。役者として確立してきましてね。
寛一郎さんの声、いかがでした? 富本、かなり練習されたようですね。
~ 富本豊志太夫<午之助> ~
・・・その美声で観衆を虜(とりこ)に!江戸浄瑠璃の歌い手・・・
蔦重が当時流行していた富本節を正本にしようと、接触を試みる富本の二代目。
別名 “馬面太夫(うまづらだゆう)”。
その美声は江戸中を魅了した。
富本豊前掾(とみもとぶぜんのじょう)を父に持ち、二代目富本豊前太夫を称する。
※ 富本豊志太夫(午之助)は、第12回より「富本豊前太夫」に名前が変わります。
ー NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ホームページ より ー
浄瑠璃・富本流は・・・

画像は日本橋人形町2-25-20、末廣神社の狛犬です。
浄瑠璃は室町時代に誕生しましたが、江戸時代に入り急速に発展、多くの流派ができました。
義太夫節・常磐津節・富本節が有名です。
その流派はそれぞれ独自の節回しや語り口を売りとしてきました。
浄瑠璃は芝居や舞踊と結びついた総合芸術です。
富本節は、歌舞伎の伴奏音楽としても使われました。
浄瑠璃は、元々は三味線を伴奏にして物語を語る伝統的な音楽でした。
富本流はそんな浄瑠璃の中で、特に優雅で洗練された節回し、静かで語りかけるような柔らかな旋律、繊細で上品という特徴を持っています。
富本流は江戸の粋な文化人たちに愛され、芝居小屋や茶屋などで人気を博すことになります。
また芝居小屋だけでなく、「素浄瑠璃」として座敷にても演奏され、庶民の娯楽にもなっていました。
商人や町人たちは茶屋や宴席で三味線とともに語られる富本節を楽しみ、そして時には自らそれを習うこともあった、とされています。
富本午之助、豊志太夫、2代目豊前太夫、そして2代目豊前掾、全て同一人物ですが、彼の活躍により富本流・富本節は一時代を築き、江戸の音楽文化の中心として確固たる地位に昇りつめました。
富本節と蔦重との関係は・・・

画像は日本橋蛎殻町1-7-7、銀杏(いちょう)八幡宮の狛狐です。
富本節は歌舞伎浄瑠璃として発展し、一時は大名の奥向きの教養・習い事として必須の音楽芸術となった、と云われています。
音楽的にも歴史的にも富本節は、常磐津節と清元節の中間というべき立ち位置でした。
蔦重は三味線音楽に欠かせない「富本節正本(とみもとぶししょうほん:別名【青表紙稽古本】)」の出版に携わりました。「べらぼう・・・」では「直伝(じきでん)」とも称していましたが・・・。
浄瑠璃本、詞章(ししょう:浄瑠璃などの文章)本の一種です。
2代目富本豊前太夫はその正本出版を蔦重に委ね、専売させました。
それにより富本節の演奏と稽古に欠かせないテキストなるものが迅速に出版されることになりました。
これにより富本節は伝承曲を増やし、後々まで正確に演奏を繰り返すことができるようになりました。
時系列的に整理しますと、
明和3年(1766年) 中村座に富本午之助として初出あり。
明和7年(1770年) 市村座に豊志太夫として初出あり。
安永6年(1777年) 蔦重、新吉原大門にて富本正本出版に着手。
天明4年(1784年) 富本正本の住所表示が日本橋通油町に変わる。
寛政9年(1797年) 蔦重死没。
青表紙稽古本は・・・

上の画像は日本橋人形町3-8-6、橘神社の狛狐(左)です。下の画像は(右)です。
江戸歌舞伎で富本節の舞踊が上演されると、巻頭に役者絵と大字の富本連名を配した「うすもの(2~4丁程度の薄葉の浄瑠璃正本、薄物正本、絵表紙正本)」が興行中に出版され、その詞章が公開されました。
浄瑠璃として語られる詞章を目で追うことにより、更なる作品理解を促す役割があったとされています。
そして興行が千秋楽を迎えたのち、版元は狂言作者に依頼し、薄物正本の詞章の合間に役者のセリフを書き加えてもらいました。
こうして再構成されたテキスト主文を大きな字体で彫って丁数を数倍に増やし、新たな版本を起こしました。
これが当時「青表紙稽古本」と呼ばれた出版物でした。
薄物正本と異なり、稽古本は同じ版木から何度も増刷され、版木が摩耗するまで継続的・長期的需要に応じることができました。
富本稽古本の巻末に続く裏表紙の内側には、「奥付’(おくづけ:本の題名・著者名・発行者・発行年月日などの記載)」が添付されました。
奥付には富本節を正しく伝える本、つまり正本であると明記されるとともに、富本豊前太夫ないし豊前掾の名義・流紋、それと版元の名義と住所が記されていました。
これにより楽曲の著作権とその版権が示された、という訳です。
※ 制作:日本伝統音楽研究センター図書室・資料委員会、企画編集:京都市立芸術大学 竹内有一研究室 「日本伝統音楽研究センター図書室 プチ展示 第5回 蔦屋重三郎と富本節」 参照

・・・「蔦重栄華乃夢噺」、今後も中央区ネタにフィックスして見つめていきたいと思います。