正岡子規 も中央区に住んでいた

鶯谷駅から5分ほど歩いた台東区根岸の 正岡子規住居跡地に建つ 子規庵 の入口です。
伊予松山に生まれた 正岡子規 は27歳の時、旧加賀藩主前田家下屋敷の元侍長屋の二軒続きの一戸であるこの地に住居を構え、故郷より母と妹を呼び寄せました。
没後は母娘が住み、多くの弟子達にも支えられ維持してきました。空襲で焼けた後、復元工事されました。

子規庵内部の六畳間に置かれた文机です。
俳句だけではなく、下絵となる風景を描きこんだり、アイデアなどのメモ帳でもある綴りが置いてあります。
この位置で横になった 子規 から見えていた糸瓜などの植物がある庭は当時の風景に近く再現されています。
子規 の絶筆三句の碑も設置されています。三句とも自分の病状と糸瓜を詠っています。
隣の部屋は床の間があり ”柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺” と書かれた掛け軸がかけられています。
諸説ありますが、この句は親友の夏目漱石が詠んだ ”鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺” を意識したのかもしれないとも言われてるようです。

幼くして父を亡くし家督相続をした 子規 は叔父と母の実家の後見を受け松山中学に入学します。
明治期になり政治の中心が東京に移り、明治維新で薩摩、長州、土佐など諸有藩に後れをとったと感じている松山藩の人々は東京への憧れが強かったようで、 子規 も東京にいた叔父にしつこく上京をアピールします。中学を卒業したら面倒をみるとなだめていた叔父がフランスへの留学が決まり、卒業を待たず呼び寄せます。
日露戦争で活躍した陸軍の秋山好古、海軍の秋山真之の秋山兄弟と幼馴染の 正岡子規 の3名を主人公にした司馬遼太郎の ”坂の上の雲” によると東京で学問をし天下をとる気風での上京です。17歳でした。
”「着けばすぐ旧藩主邸にあいさつにあがるように』と叔父からの注意されていたので新橋停車場から人力車に乗り、日本橋区浜町の久松邸にむかった。” と書かれています。
久松邸は約3,000坪の屋敷だそうです。写真は浜町川緑道からの屋敷のあった浜町二丁目あたりを写しました。

正岡子規 は上京後この久松邸の”お長屋”で寄宿しています。叔父がフランスへ出発前に手筈して赤坂の須田学舎で漢文を学び、受験英語のためと共立学校も世話します。共立学校は今の開成高校の前身です。 子規 は数学と英語が苦手だったようです。
そして久松邸内に、旧伊予松山藩士の在京する子弟のために援助組織、 常盤会 が組織されます。学費や宿を確保でき、東京での活動の後押しをします。 子規 は常盤会初代の給費生10名の一人に選ばれます。そして東大予備門に入学します。同窓生には南方熊楠や親友となる夏目漱石がいます。
4年後、常盤会は文京区の坪内逍遥の旧邸に移ります。 子規 が喀血に苦しみ始めるのはそちらに移ってからのことです。

中央区には著名な俳人に縁があります。 松尾芭蕉 は奥の細道の出発点になる現江東区の萬年橋の麓の草庵に住む前の9年間は小田原町(現日本橋室町)の借家に居ました。当時は桃青と名乗り俳諧宗匠として独立します。 ”発句也 松尾桃青 宿の春” の石碑が日本橋鮒佐の入口脇にあります。
”菊の花 咲くや石屋の 石の間” この石碑が八丁堀の亀島橋の麓にあります。江戸名所図会の三ツ橋の挿絵に八丁堀で詠んだと書かれています。

13歳の時、 松尾芭蕉 に入門したのが 宝井其角 です。
蕉門十哲の一人とされています。江戸っ子が好む派手な句風、洒落風でとても人気がありました。 芭蕉 の没後 其角 の一派は江戸座と呼ばれます。 ”越後屋に きぬさく音や 衣更え”
忠臣蔵を題材にする話で討入りの前夜、俳句仲間の大高源吾とばったり出会う場面は両国橋の別れとして登場しますが、実際は面識がなかったようで、作家たちは江戸っ子に人気があった 其角 を登場させたようです。
今の日本橋茅場町に住居跡の石碑があります。隣には荻生徂徠の屋敷がありました。
”梅が香や 隣は 荻生惣右衛門”

敬い慕ることになった 芭蕉 の没後に大阪で生まれた 与謝蕪村 は20歳の頃、江戸に出て来ます。石町時の鐘の辺りに夜半亭という庵を結んだ俳諧師早野巴人に弟子入りし、内弟子として師が没するまで7年ほどここに居住しました。
”尼寺や 十夜に届く 鬢葛”
当時、江戸の俳壇は低俗化していました。 芭蕉 を慕う 蕪村 は彼のように旅に出て、絵を描くことと共に修行に励みます。蕉風回帰を唱え、俳諧を確立させた中心人物です。40代になり京都に居を構え、 与謝蕪村 と名乗りました。
”春の海 ひねもす のたりのたり哉”
江戸時代を代表するもう一人の俳人 小林一茶 は15歳で信濃から江戸に奉公に出ます。その後の10年ほど江戸での音信は不通とされ、江戸の東部や房総方面の俳諧師と交流が確認されますが、現代の中央区との関連は不明です。両国橋の麓を詠んだ句がありますが、現江東区大島と墨田区緑にいたことは知られていて中央区側からではないかもしれません。
”寒月や 石尊祈る すみだ川”

現在の地図では中央区の端の一つにあたる所に柳橋があります。 正岡子規 が住んだ久松邸常盤会からはそう遠くではありません。トラス橋に架け替えられた頃に寄宿しています。喀血する以前ですのでよく散歩もしたのではないでしょうか。

その柳橋の麓にある説明版に 子規 の句が二句あります。
春の夜や夕涼みの句です。健康であった青春時代を思わせます。
その後、常盤会は文京区の坪内逍遥旧宅に移り、 子規 も移転します。そこで3年ほど暮らしました。
東大入学後に退学して、日本新聞社に入社します。上京した時から面倒をみてくれていた陸羯南が社長になっていました。この新聞社は創立当時は日本橋蛎殻町にあったそうです。記者として戦争に従軍したりしますが病気が進行し、根岸の家で闘病生活をし、最期を迎えます。
”糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな”
”痰一斗 糸瓜の水も 間に合わず”
”をとゝひの へちまの水も 取らざりき”
正岡子規 絶筆の三句です。