築地・空飛ぶクルマ 〜空を飛ぶ夢
<左側が築地市場跡地(2025/04/18)>
昨年のことですが、築地市場跡地の開発計画が発表されました。ここには、5万人規模を収容するスタジアムを核として、ホテル・レジデンスなどが建てられたり、乗船場、地下鉄新駅が作られる構想もあるとのことで、いろいろと盛り沢山なのですが、ほかに挙げられたのが、夢のある「空飛ぶクルマ」の発着場。
何のことだ?とその時は思っていましたが、先月開幕した大阪万博でも話題になっておりまして、近年のAI技術の進歩の後押しもある中、次世代の移動手段として注目されるこの「空飛ぶクルマ」は一気に現実味を帯びてまいりました。
その乗り物をテレビの映像で見たりしますと、今のところ「クルマには見えない」という気も致しますが、飛行船だって「フネには見えない」ので良いのではないかと。この夢のある乗り物は、もしかしたら、ここ数年のうちにごく身近なものになるのかもしれません。
<築地市場跡地(2025/03/15)>
さて、ここ築地市場跡地は歴史的にいうと、明治時代には海軍施設があった場所なのですが、同じように、「空を飛ぶ乗り物」が話題になった事がありました。今回はこの「空を飛ぶ乗り物」に関してのお話です。
明治10(1877)年の「西南戦争」の時ですが、偵察や連絡手段の目的で「気球」が作られることになり、その実験飛行が行われた場所が築地の海軍施設でした。日本初の乗用気球の飛行とされていまして、日本人が初めて気球で空中に上がった瞬間でした。高さ約200メートルまで浮上したのだそうです。
その後も実験は行われ、その時の雰囲気を伝える絵もいくつか残されています。明治天皇もご覧になったのだそうで、文明開化の頃に「空を飛ぶ」という未来感を感じていた場所が、ここ築地だったのです。
<築地よりみち館に展示されている絵>
「空を飛ぶ乗り物」は、世界的にはその後、
・明治33(1900)年の ツェッぺリン硬式飛行船の歴史的初飛行
・明治36(1903)年のライト兄弟の飛行機初飛行
と続いたのですが、
日本でも明治から大正に時が変わる頃に、気球から飛行船・飛行機の時代へと移っていきました。

この絵葉書の写真は、日本橋川に架かる日本橋から、上流の西河岸橋、その向こうの一石橋方面を写したものです。大正元(1912)年に飛んだ飛行船が写っています(絵葉書には「一石橋より望む」と書かれていますが、私が調べたところ間違いで逆方向です)。
昔の西河岸橋の姿はこのような形だったのですが、方向からすると、飛行船は宮城(現在の皇居)の上辺りに浮いていることになります。
この飛行船は一体何なのだろう?と思っていたところ、所沢にある「所沢航空発祥記念館」で、大正時代に作られた飛行船「雄飛号」の特別展示があることを知りました。ここで分かるのではないかと思い、我が故郷でもある所沢に行って調べてまいりました。

所沢は航空発祥の地
「所沢」といえば、
・埼玉西武ライオンズの本拠地
・宮崎駿監督や「となりのトトロ」ゆかりの地
として知られているのかもしれませんが、歴史的には、日本で初めて飛行場が作られた場所です。日本の飛行船や飛行機の黎明期に、空を飛ぶための数々の試験飛行が行われていました。
その跡地は現在、「所沢航空記念公園」という広大な敷地になっておりまして、私も子供の頃によくここで遊んだものです。
ここに「所沢航空発祥記念館」があり、旧所沢飛行場での飛行の歴史を中心に、日本の航空の歴史が学べるようになっています。
先ほどの西河岸橋の先に浮かぶ飛行船は、展示の内容を元に確認したところ、明治45(1912)年6月にドイツから購入した軟式飛行船というタイプの「パルセバル飛行船」であることが分かりました。輸入後に組み立てられたあと、大正元(1912)年8月に所沢飛行場で初飛行となり、18分間で16kmの飛行を記録しました。その後飛行距離を伸ばしていき、10月の「帝都訪問飛行」となったのが絵葉書の写真というわけです。
所沢飛行場の開設日は前年の明治44(1911)年4月1日なのですが、この頃の中央区域内では「日本橋の開通式」が同年4月3日に行われていますので、この2つはほぼ同じ時期。絵葉書は、新しく架かった1年半後の日本橋から撮られた日本橋川の風景で、民衆は日本橋の上から空を見上げていたということになるのですね。
ちなみに、この「パルセバル飛行船」ですが、翌年大正2(1913)年3月の青山練兵場での観覧会の際に着陸を誤り大破してしまいます。その後、この飛行船を一部流用して改良が加えられ、大正4(1915)年の春に「雄飛号」が所沢の地で完成します。そして翌年1月には所沢〜大阪間の大飛行を成功させました。

しかし日本では、この歴史的快挙を成し遂げた雄飛号を最後に飛行船研究は下火となり、飛行船と同じ時期に黎明期を迎えていた「飛行機」が研究の主になっていきます。
日本の飛行機の黎明期と空飛ぶクルマ
日本で動力飛行機が初めて飛んだのは、明治43(1910)年12月19日とされています。東京の代々木練兵場で徳川好敏大尉がフランス製のアンリ・ファルマン1910年型の飛行機を操縦し、成し遂げています。
翌年明治44(1911)年には所沢飛行場ができて、国産の飛行機研究も活発になり、アンリ・ファルマン機が飛んだあと
・5月5日「奈良原式二号」 奈良原三次による初の国産機の飛行成功
・10月13日「会式一号機」 臨時軍用気球研究会による国産軍用機として初飛行
と続き、研究飛行が急ピッチで進みます。
会式一号機はその後10月25日に、高度85m・距離1600m・速度70km/hを達成し、アンリ・ファルマン機を上回る性能を示す結果を残しました。

〈徳川式第三号(会式三号機)〉
短期間で目覚ましい進歩を遂げていった飛行機ですが、黎明期の機体の写真を見てみますと、わりと簡素な作りに見えてしまうので、おそらく、飛行機を操縦すること自体が「命懸け」だったのだろうと思います。
実際に、大正2(1913)年3月28日、わが国で初めての飛行機による墜落死亡事故が所沢にて発生してしまいます。
民衆にとって、飛行船や飛行機はこの頃はまだ乗るものではなく「見る」ためのもので、「空を飛ぶ」ということ自体がとても衝撃的なニュースだったに違いありません。そんな折に起きてしまった墜落事故。当時、とてもセンセーショナルな出来事と捉えられたようで、それを記念するための記念塔も建てられました。歌人の与謝野晶子も15首もの短歌を寄せています。
<発祥記念館の展示より>
そして、おそらく今現在が、「空飛ぶクルマ」の黎明期の時代。大阪万博での飛行の映像を見ますと、まだ試験飛行的な段階で、この姿は、飛行機の黎明期の時代の写真の姿と重なってしまいます。
なかなかうまくいかないようではありますが、安全性重視が大前提のこの世の中。命懸けであってはなりませんので、致し方ないのかと思います。
築地という場所は臨海部にも近く、また近隣には高層のビルも立ち並ぶことから、突然の強風が吹いたりしますので、この「空飛ぶクルマ」が築地で実用化となるまでは相当の年月が掛かるかもしれません。ですが、夢を見ることは悪い事ではありませんので、静かに見守っていきたいと思います。
「君はツェッペリンを見たか!」
関東大震災のあとの昭和初期の時代、話題となった飛行船がありました。最後にこれをご紹介してみます。

昭和4(1929)年8月、ドイツの巨大飛行船である「ツェッペリン伯号」が世界一周中に日本に立ち寄り、東京の上空をぐるっと回って霞ヶ浦にある飛行場に着陸します。この様子が実況放送され、「君はツェッペリンを見たか!」という言葉が当時流行にもなりました。
絵葉書の写真は、隅田川の上空に浮かぶツェッペリン伯号です。
この頃の東京は、まだ関東大震災後の復興の最中で、写っている橋は先代の「両国橋」。この写真の3年後に両国橋は現在の新しい橋に架け変わります。ちなみにその上流に架かる橋は、昭和2(1927)年に架けられたばかりの「蔵前橋」です。
飛行船の全長はおよそ235m。おそらくこの両国橋を渡っていた民衆は皆、空に顔を向けていたのでしょう。橋よりも長いその飛行船の大きさに圧倒され、大空に夢を見ていたに違いありません。
その時の動画も残っておりまして、所沢航空発祥記念館での飛行船の特別展示でも紹介されていましたので、せっかくですのでこちらでもご紹介させていただきます。