中央区には八丁堀が二か所ありました

さて、なんのことでしょう

中央区で八丁堀といったら、JR八丁堀駅があり、観光検定の知識的には与力・同心組屋敷跡があり、町名にもなっている場所を思い浮かべる方が多いでしょう。
(観光検定経験者の読者が多いと想定)

「八丁堀」って地名ですが、現代堀は存在しません。
京橋川・楓川より亀島川に連絡する運河として、1612年に開削されたといわれてます。
八丁堀と呼ばれてましたが、桜川という別名も用いられてました。

京葉線が通る鍛冶橋通りに八丁堀駅がありますが、ちょい南側に桜川公園とか、細長い本の森ちゅうおう(中央区立郷土資料館)があり、地図上でみると、川の跡地かなと、なんとなく感じ取れる場所です。

以下地図上に八丁堀跡地に線を引きました。

 

 中央区には八丁堀が二か所ありました

さて、本番はここから

皆様「熈代勝覧」(きだいしょうらん)をご存じだろうか

江戸時代後期の文化2年(1805)頃の日本橋通りを描いた作品で、神田今川橋(現在の神田駅前付近)から日本橋までの中央通りを舞台に、当時の町の繁栄と人々の日常生活が詳しく描かれいます。
1.4倍サイズの複製画が三越前駅コンコースに常設されており、いつでも見ることができます。

参考
https://nihonbashi-info.tokyo/kidaishoran/

八丁堀とは直接関係ない話のように思われるが、文中の「神田今川橋」が中央区に存在する二つ目の「八丁堀」である「神田八丁堀」に架かっていた橋です。


ちょっと江戸の歴史に興味がある方なら知っている、1657年に起きた明暦の大火。
江戸城及び江戸市内に大きな被害をもたらしました。

この大火の後に、防火のために八丁(約870メートル)にわたって土手が築かれて、そばに明地(空地)が作られました。

1691年に町人たちが自ら費用を負担して明地に堀を開削したそうです。
これが神田八丁堀であり、神田堀や銀堀(しろがねぼり)とも呼ばれていたとのこと。

のちに竜閑(りゅうかん)川と名付けられ、千代田区と中央区の区の境になりました。

竜閑川と呼ばれるようになった所以は、江戸城殿中接待役の井上竜閑(龍閑)が、近くに住んでいたからとか

参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C%E9%96%91%E5%B7%9D

 中央区には八丁堀が二か所ありました

日本橋川から分岐して北東に流れ、右に曲がり浜町川となり隅田川に注いでいました。
浜町川は甘酒横丁と交わるあたりに、弁慶像がある今は緑道公園になっています

 終戦後の、1950年(昭和25年)に堀が全部埋め立てられ、架かっていた橋はなくなりました。

参考
https://www.edo-chiyoda.jp/knainobunkazai/bunkazaisign_hyochu_setsumeiban/2/2/85.html


八丁は約870メートルですが、実際地図上で計測したら1.2Km弱ありました。
まあ、昔の人はアバウトだったのでしょう。(違ったらごめんなさい)

ちなみに、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の「道中膝栗毛発端」に「神田の八丁堀に。新道の小借家住居し」と書かれ、弥治郎と喜多八は神田の八丁堀の借家に住んでいたという設定です。

 

中央通りから北東方面

中央通りから北東方面 中央区には八丁堀が二か所ありました

昭和通りにぶつかる手前にある地蔵橋公園内の記念碑

昭和通りにぶつかる手前にある地蔵橋公園内の記念碑 中央区には八丁堀が二か所ありました
 中央区には八丁堀が二か所ありました

昭和通りを渡り千代田区側(北側)にある案内版

昭和通りを渡り千代田区側(北側)にある案内版 中央区には八丁堀が二か所ありました

 

 

ということで、今回の中央区には八丁堀が二か所あったというお話しはここまで!