なかすをさがすのまき

あえてひらがなで書き、わかりづらくしました。
多数いる特派員さんとの差別化のため、あえて突飛な表現を使ってますw

漢字で書くと「中洲を探すの巻」です。昔の某忍者アニメのタイトル風。ニンニン

冒頭なのにくだらない駄文を読んで頂き、ありがとうございます。
時間は返せませんのであしからず。。

『中洲』という地名を聞くと、一般的には福岡県福岡市にある繁華街の中洲をイメージする方が多いかと思われます。実際、『中洲』でググると福岡の中洲が上位に引っ掛かりますが、一般用語として中洲っていう言葉は、大きな川の流れの中央あたりにある島みたいな場所ですよね。

中央区にも日本橋中洲という地名があります。現代ではとてもマイナーで、観光スポット言われるようなものは、後述する寂れた神社(個人の感想です)があるぐらい。

マンションや、事業所などしかなく、かつ小さなエリアで、付近の住民ぐらいしか地名を知られていないんじゃないかと思われます。(個人の意見です)

トップ画像は隅田川を走る水上バスから見た中洲エリア。

涼しい部屋で見る分には、いい天気な水辺の写真。
今回のブログ執筆のためだけではありませんが、先日浅草から日の出桟橋まで隅田川を下る水上バスに乗船し、屋上デッキで写真を撮りました。直射日光をモロに受け、バチくそ暑かった!

左側にちらっと清洲橋が写ってます。
現在は先述通り、住宅地なので、わざわざ写真撮るような所じゃないです。

Foreign countryからのTouristが、わんさか乗船してた水上バスから、パシャパシャと平凡な中層マンションが建ってる中洲方面の写真を撮っていたので、このJAP少し頭おかしいんじゃね、と思われたと思われます。

今回は、その現在は何もない日本橋中洲をテーマにしてみよっかなと。

					

日本橋中洲の場所

日本橋中洲の場所 なかすをさがすのまき

ちょっとわかりづらいですが、Googlemapで検索し、「日本橋中洲」が少し明るい色&赤枠で囲われてます。場所的にはT-CAT(東京シティエアターミナル)がある箱崎の右上あたり。

現代の地図を見ると、なんで中洲??って思うでしょう。先述通りマンションぐらいしかないただの住宅地。なんもないので、あえて行くようなエリアではありません。(個人の意見です)

以前のブログ「月島のわたし」で1960年代の航空写真をつかったネタを記載しましたが、
今回も同様に航空写真を利用したネタでいっちゃいます

 

1960年代の航空写真

1960年代の航空写真 なかすをさがすのまき

ワオー!!
60年以上前になりますが、ほんとにリアル中洲でした!

ってことで今回は、現在はただの住宅地でも、昔は中洲だった痕跡を現地調査してきましたので
それを報告したいと思います。

現在はなんもないですが、明治の中ごろから大正にかけて、小劇場「真砂座」を中心にした歓楽街があったとか。
さらに護岸から隅田川を眺められることで、割烹や料亭とかが立ち並ぶ風光明媚なところだったようです。

がしかーし!

洪水に耐えるために堤防がこしらえられたことで、護岸に面していた料亭は目の前が壁。。
まあ、今まで見えていた水辺の風景が見えなくなったら当然行く価値下がりますな

衰退してマンション群になってしまったようです。

わたくし別に研究者ではないので、過去の詳細はこちらの参考文献のサイトをご覧下さい(手抜き)
http://www.ic9tokyo.com/01town_03nakasu_01.html 参考文献:一色九月堂「日本橋中洲繁栄記」

 

おいしいいところだけ抜粋
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『直立型の俗にかみそり堤防といわれた防潮堤が当時、どれだけの圧迫感を河畔の住民にあたえたのか。人を水ぎわから鋭利に切り離す〝かみそり〟の形容以外に直に知ることは難しいが、おなじ隅田川を望む下町を舞台にした昭和61年の山田太一作ドラマ『シャツの店』で鶴田浩二演じる主人公のシャツ職人がはき捨てた、その心境をうかがわせる科白を思い出す。

《この道路は、なんだ、この柱はなんだ、あの堤防はなんだ!コンクリートばっかりじゃねえか》

水ぎわの景観を失い、そして昭和47年、中洲は箱崎川の埋め立てで地つづきとなった。中洲には昭和53年から55年ごろ建てられた大型マンションが多く、これはその時期廃業した料亭の広い敷地が、次々とマンションに建て替えられていった編年の記録でもある。』

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ということで、風光明媚だった中洲という場所が、時代の流れのなかで衰退してしまったとさ。

当時の水際線を地図に再現!

当時の水際線を地図に再現! なかすをさがすのまき

航空写真と現代の地図を比べてみて、現代の地図に水際線を書いてみました。

箱崎川を埋め、そのまま高速道路の高架が作られてます。高架下は、中洲エリアはあやめ公園になってます。
地続きになっても、左側の「おんな橋」が斜めに架かっているところとか、そのまま残っていることがわかります。
真ん中の「あやめ橋」は清洲橋から繋がっている橋なので、道路としてそのまま残ってますし、右側の「おとこ橋」の場所もそのまま道路になってます。

中洲と左下の箱崎を繋いでいる「中洲橋」も道路として残ってます。

 

中洲の先端の護岸部分

中洲の先端の護岸部分 なかすをさがすのまき

で、実際にめぐってみました。
こちら中洲の先端部分で、現在はあやめ公園になっている箱崎川側から撮ったもの。
カーブしている当時の護岸が残ってます。

清洲橋

清洲橋 なかすをさがすのまき

中洲を探すという主題とは関係ありませんが、ここらの主力な建築物「清洲橋」

国の重要文化財になってます
江東区側の清住町(現在は清澄白河の清澄)と、日本橋区中洲町からとった、と観光検定の教科書「ものしり百科」に書かれてます。ものしりな読者には、今更ながらの情報ですね。

日本橋中洲金刀比羅宮

日本橋中洲金刀比羅宮 なかすをさがすのまき

あやめ橋に隣接する場所にある「日本橋中洲金刀比羅宮」

https://tesshow.jp/chuo/shrine_nakas_kotohira.html
日本橋中洲金刀比羅宮は、天明3年(1783)創建、隅田川往来の船人の守護神として信仰を集めたとのこと。
サイトには歴史的なことを書かれてますが、時代(とき)は流れ、現在は朽ちそうな神社にしか見えません。

 なかすをさがすのまき

社を囲う玉垣に料亭の名が連なってます。
先述どおり過去の繁栄の証として刻まれてます。

 

金刀比羅宮の裏手(箱崎川面)

金刀比羅宮の裏手(箱崎川面) なかすをさがすのまき

手すりがかかっていた柱のような残骸が放置されてます

 なかすをさがすのまき

「あやめ橋」は消えてもその名は継承。中央区あるあるです

「あやめ」は漢字で書くと「菖蒲」です

 

あやめ公園に残る護岸

あやめ公園に残る護岸 なかすをさがすのまき

知らないと、視線スルーですが、あやめ公園には護岸がほぼ残っています。

他にも遺構の写真を撮りましたが、今回ここまで。

ご興味がある遺構マニアの方、実際にお足を運ばされてはいかがでしょうか。比較的狭いエリアなので短時間で周れます。

今回ここまで!