『銀座』はどこまで?
銀座を一周してみましょう! ③
~ 三十間堀跡・芝口御門跡 ~
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
「『銀座』はどこまで? 銀座を一周してみましょう!」シリーズ、今回は第3回となります。
今回は前回より少し長く進みました。
「三十間堀跡(さんじっけんぼりあと)」と「芝口御門跡(しばぐちごもんあと)」をご紹介します。
それでは・・・
三十間堀跡(さんじっけんぼりあと)
江戸時代から昭和27年(1952年)まで、現在の中央通りと昭和通りの間には南北に長い入堀がありました。
慶長17年(1612年)に完成したこの掘割は、江戸城下の埋め立て造成の過程で舟入堀として整備されました。
なお、三十間堀の名は堀幅が三十間(約55m)あったことに由来します。
また、当初の三十間堀川は、京橋川から鉤(かぎ)の手状に曲がった後に南流していましたが、明治39年(1906年)の水路工事によって京橋川から汐留川まで真っすぐ南流する堀川となりました。
なお、文政11年(1828年)には、河岸地の面積を広げるために護岸が埋め立てられており、堀幅が19間(約35m)にまで狭められました。
戦後、この掘割は、がれき処理のために昭和23年(1948年)から埋め立て工事が行われ、同27年(1952年)にその姿を消しました。
向かって左側に積み上げた3個の築石は、三十間堀のもので、(銀座)8丁目12番9号護岸により発掘されたものです。
右側の石は、約4トン半あり8丁目10番地の4号、旧料亭蜂龍跡地から発掘されたもので、此所(ここ)は江戸名所図絵(江戸名所図会)にも描かれ、今日の信楽通りの源である「信楽茶屋」跡と云い伝えられております。
ー 17世紀に開削された三十間堀跡 ー
京橋川から汐留川にいたる堀川で、慶長17年(1612年)に開削された。
堀の幅が三十間(約55m)あったことからこの名がついた。
文政11年(1828年)に堀幅が19間に狭められ、昭和27年(1952年9には埋め立てられた。
跡地には説明板が設置されている。
ー 歩いてわかる中央区ものしり百科 より ー
※ 「三十間堀川」につきましては、近々(おそらく16日頃)掲載します『地下鉄銀座駅 地下コンコース 歩いてみますといろいろなモニュメントがあります 別途「お知らせ」、あります ~ 銀座駅 地下コンコース ~』でも説明しています。
ぜひそちらもご覧ください。
中央区観光検定の第12回では、以下のような設問がありました。
「御門通りには、かつてこの地に掘割があったことを示す説明板が設置されています。
堀の幅にちなんだ名がつけられていましたが、この堀の名前は次のうちどれでしょう。」
・・・4択の正解は 三十間堀 です。
芝口御門跡(しばぐちごもんあと)
(冒頭の画像が「芝口御門跡」の全景です。)
所在地 中央区銀座8-8・9・10付近
ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和39年(1964年)まで新橋が架かっていました。
宝永7年(1710年)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示(けんじ)するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。
城門は橋の北詰を石垣で囲って桝形とし、橋のたもとの冠木門(かぶきもん)から桝形に入って右に曲がると、渡櫓(わたりやぐら)があって堅固な門扉が設けられていました。
しかしこの芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724年)正月に消失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。
石碑に埋め込まれています銅板。
門の意匠を施しています。
ー 新橋の北詰に置かれた枡形門(ますがたもん)の跡地 ー
宝永7年(1710年)、朝鮮通信使の江戸参府に際してわが国の威光を示すため、新橋の北詰に枡形門が建造された。
この門は芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と一時改称された。
しかし享保9年(1724年)に消失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋という旧称に戻った。
跡地に立つ記念の石碑には、門の意匠(いしょう)を施した銅板が埋め込まれている。
ー 歩いてわかる中央区ものしり百科 より ー
第6回中央区観光検定では、次のような設問がありました。
「宝永7年(1710年)、江戸幕府は新橋の北詰に芝口御門(しばぐちごもん)と呼ばれた桝形門(ますがたもん)を建造しました。
この門を設置した主な理由は次のうちのどれでしょう。」
・・・4択の正解は 江戸参府の朝鮮通信使に対して幕府の威光を示すため です。
また、第10回でもこのような設問がありました。
「銀座八丁目には、かつてこの場所に芝口御門があったことを示す石碑が立っています。
この門は、宝永7年(1710年)、朝鮮通信使の江戸参府に際して、わが国の威光を示すために新橋の北詰に建造されました。
この門の形式は次のうちどれでしょう。」
・・・4択の正解は 枡形門 です。
更に、第12回でも以下のように設問が登場しました。
「銀座には、宝永7年(1716年)に建造された芝口御門(しばぐちごもん)の跡があります。
この門が建造された理由は、江戸参府する( )にわが国の威光を示すためといわれています。
( )に当てはまる言葉は次のうちどれでしょう。」
・・・4択の正解は 朝鮮通信使 です。
Postscript
1日に掲載されました、えだまめさんの『特派員のひとり反省会2023 ~その1 柳橋の欄干~』の記事を拝見しました。
ロズマリも取りこぼしの散見された「第15回中央区観光検定」でしたが、『柳橋のかんざし』は正答できました。
えだまめさんの仰るとおり、『かんざし』は「歩いてわかる中央区ものしり百科」にも載っていない内容ですが、ロズマリも以前「かんざし」を記事に書いていました。
2020年7月28日「『新参者』 10年を考察 番外編 ① ~ 柳橋 ~」です。
こちらです。
⇒ https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=1474
しかしえだまめさんが2020年2月17日に掲載されました『特派員のひとり反省会2020 その1 ~第12回 中央区観光検定より~』においてロズマリ記事『「折り鶴ウェーブ」の袋詰めボランティア募集』をご紹介いただいていたこと、この期に及んで初めて気づきました。ごめんなさい、そしてありがとうございます。
三十間堀跡・芝口御門跡
三十間堀跡 銀座8-13先
上の地図右下、薄いターコイズ色の丸
芝口御門跡 銀座8-10-8
上の地図右下、金色の三角
銀座全図の下方、黄緑色のラインを進みました。
マークの三十間堀跡=薄いターコイズ色の丸、芝口御門跡=金色の三角は前図と同じです。