『銀座』はどこまで?
銀座を一周してみましょう! 番外編
~ 森田座跡・狩野画塾跡・佐久間象山塾跡 ~
ー それから、江戸歌舞伎関連 ー
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
「『銀座』はどこまで? 銀座を一周してみましょう!」シリーズ、先月でめでたく一周ゴールしました。
ですが、そのスタート・ゴール地点付近には、ご紹介したいところがあと少しありました。
それは、「森田座跡」・「狩野画塾跡」・「佐久間象山塾跡」 です。
今回はそちらをご案内したいと思います。
また、森田座跡の他の、中央区内の「江戸歌舞伎」関連を併せてご紹介します。
森田座(もりたざ)跡
冒頭画像は何? と思われた方、多いのではないでしょうか。
別に奇をてらった訳ではございません。
ここは銀座6丁目14番のACホテル東京銀座前、その先はコートヤード・マリオット銀座東武ホテル、「森田座」があったとされるところです。
ここの昭和通り側に、上のような説明板があります。
森田座跡
銀座6丁目13・14番辺り
江戸時代、この地には官許(かんきょ)の芝居のうち、江戸三座と呼ばれ、歌舞伎を興行した森田座の芝居小屋がありました。
この辺りは木挽町(こびきちょう)5丁目と呼ばれており、森田座のほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋である土佐座がありました。
これらの周りには芝居茶屋が集まっており、賑わいを見せていたようです。
木挽町の名は、江戸城築城時に多くの木挽職人(木材を大きな鋸【のこぎり】で切る人)が居たことによるようです。
森田座は、万治3年(1660年)、森田太郎兵衛によりこの地に創設され、以後座元は「森田勘弥」を名乗りました。
森田座は、堺町(さかいちょう)、葺屋町(ふきやちょう【現中央区日本橋人形町3丁目辺り】)にあった、江戸三座の中村座、市村座とともに、天保13年(1842年)から14年にかけて、猿若町1丁目から3丁目(現台東区浅草6丁目辺り)の街をつくり、そこに移されました。
後に、安政5年(1858年)「森田座」改め「守田座」となり、明治5年(1872年)、現中央区の新富に移り、同8年に「新富座」と改称しました。
以後、明治12年の興行失敗から、同30年までに「猿若座」「桐座」「深野座」「都座」などと頻繁に名称がかわったようです。
明治30年新富座に復名、同42年には松竹合名会社に買収され、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失し、森田座の血脈を受け継ぐ芝居小屋は途絶えてしまいました。
平成13年、ここから約1キロメートル北東の京橋2丁目遺跡から、森田座の入場券である木札が出土しました。
我が国を代表する文化である歌舞伎の芝居小屋が中央区で発祥し、これに直接関わる考古資料として極めて重要なものであることから、平成17年4月に中央区民文化財として登録されています。
狩野画塾跡(かのうがじゅくあと)
銀座5丁目13番付近
江戸幕府の奥絵師であった狩野四家はいずれも狩野探幽(たんゆう)・尚信(なおのぶ)・安信(やすのぶ)の三兄弟を祖とし、「鍛冶橋(かじばし)」「木挽町(こびきちょう)」「中橋(なかばし)」と「浜町(はまちょう:木挽町の分家)」の四家すべての拝領屋敷が区内にありました。
木挽町狩野家の祖・狩野尚信は寛永7年(1630年)に江戸に召し出され、竹川町(現在の銀座7丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。
その後、六代典信(みちのぶ:号は栄川【えいせん】、栄川院【えいせんいん】ほか)の時に老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の知遇を得て、木挽町の田沼邸西南角にあたる当地に移って画塾を開きました。
奥絵師である狩野四家の中で、もっとも繁栄した木挽町狩野家は諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人が数多く集まりました。
門人のほとんどは、諸侯のお抱え絵師の子弟で、14から15歳で入門し、10年以上の修行を要しました。
修行後は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。
この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出されていますが、明治の近代日本画壇に大きく貢献した狩野芳崖(ほうがい)や橋本雅邦(がほう)などは、ともに木挽町狩野家十代・雅信(ただのぶ)の門下生です。
佐久間象山塾跡(さくましょうざんじゅくあと)
銀座6丁目15番付近
この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代(まつしろ)藩士佐久間象山(1811年~1864年)の私塾がありました。
象山は初め儒学を修め、天保10年(1839年)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。
後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851年)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町5丁目(現在地付近)に塾を開きました。
嘉永6年改正の絵図によると、「狩野勝川(しょうせん:幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)」と向かい合う場所に「佐久間修理(しゅり:象山)」の名が見られます。
この塾は20坪程の規模で、常時30~40人が学んでいたといいます。
その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内(さない)・河合継之助(つぐのすけ)など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門下帳に確認することができます。
龍馬は、嘉永6年に江戸へ最初の剣術修行(※)に出て、その最中である12月1日に象山に入門しました。
木挽町の塾には諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永7年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許(くにもと)に蟄居(ちっきょ)を命ぜられて塾も閉鎖されました。
※ 中央区役所脇の「土佐藩築地邸跡(築地1丁目1~6番、同2丁目1・6~9番地域)」の説明板には、
「薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬は、安政3年(1856年)から同5年ころ、剣術修行のため江戸に来ていました。龍馬はこの地の土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(おけちょう:現八重洲2丁目・京橋2丁目の一部)にあったとされる千葉定吉(さだきち)道場に通っていたようです。」
とあります。
龍馬さん、複数回、そして長期にわたり、中央区を闊歩していたのですね。
・・・ここからは、区内の江戸歌舞伎関連です。
江戸歌舞伎
江戸歌舞伎の特色として、まず第一に初代市川團十郎が創始した荒事(あらごと)の演技があげられる。
隈取(くまどり)をした英雄が悪人を滅ぼす勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の物語が、新興都市であった江戸の気風と合って、観客を魅了した。
また江戸後期には四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』、河竹黙阿弥が『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ:白浪五人男)』といった名作を書き下ろし、江戸歌舞伎を盛り上げた。
江戸三座が興行をしていた中央区域からは、当時の劇場の入場券である「切落札(きりおとしふだ)」と「土間札(どまふだ)」が出土している。
前者はいわゆる自由席、後者はやや上等の席であった。
「市村座の切落札」は日本橋2丁目遺跡、「森田座の切落札」は京橋2丁目遺跡、そして「中村座の土間札」は日本橋1丁目遺跡から発掘された。
江戸三座の入場券が出土した例はほかになく、江戸歌舞伎に関連する極めて重要な資料である。
~歩いてわかる 中央区ものしり百科 より~
江戸歌舞伎の発祥(森田座 着目)
(前略)
寛文元年(1661年)に、中村座のある堺町、市村座のある葺屋町、山村座と森田座のある木挽町以外では、歌舞伎の興行が禁じられ、この四座が官許の芝居小屋として歌舞伎の興行を行った。
(中略)
・・・絵島、生島をはじめ関係者は厳罰に処せられ、山村座は廃座に追い込まれた。
この事件により、江戸の官許も芝居小屋は、中村座・市村座・森田座の三座となり、以後、明治期までこれが守られる。
また、江戸三座は、老中水野忠邦による天保の改革で、天保13年(1842年)に浅草へ強制的に移転させられ、浅草猿若町で興行を行うこととなった。
明治5年(1872年)に守田座(後に新富座と改称)が浅草から新富町に移転し、中央区に劇場が戻ってくる。
(後略)
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
江戸歌舞伎発祥の地
京橋3-4先 中央通り際
江戸歌舞伎は、寛永元年(1624年)に猿若座(のちの中村座)の猿若勘三郎が中橋南地(なかばしなんち:現在の京橋1丁目周辺)で櫓(やぐら)を上げたのがはじまり。
記念碑は京橋のたもとにある。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
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2023年10月7日「『銀座』はどこまで?銀座を一周してみましょう! ⑩ ~ 江戸歌舞伎発祥の地・京橋大根河岸青物市場跡・京橋の親柱(3基のうち2基) ~
堺町(さかいちょう)・葺屋町(ふきやちょう)芝居町跡
日本橋人形町3丁目2~7番地域
堺町は慶長年間(1596年~1615年)に沼地を埋め立てて起立されたといわれ、明暦2年(1656年)のころには西半分の上堺町が葺屋町として分かれ、東半分の下堺町は堺町として残りました。
江戸時代、この辺りには芝居小屋やそれらを取り巻く茶屋などが集まっており、大変賑わっていました。
芝居小屋のなかには、江戸三座と呼ばれた官許の芝居のうち、歌舞伎を興行した中村座と市村座(ほかに現銀座6丁目あたりの森田座)があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数ありました。
江戸三座筆頭である中村座は、京より江戸に移り住んだ猿若勘三郎が、寛永元年(1624年)に猿若座(後の中村座)を中橋南地(現京橋1丁目辺り)に創設し、これが現在につながる江戸歌舞伎の発祥となりました。
寛永9年には禰宜町(ねぎちょう:現日本橋堀留町1丁目辺り)に、慶安4年(1651年)には下堺町へと移転し、二代勘三郎のとき本姓の中村を名乗り「中村座」と改称しました。
この間、堺町では、上堺町において寛永10年に都座が、寛永11年には村山座(後の市村座)が創設されました。
(中略)
堺町・葺屋町の芝居小屋は、天保の改革により天保13年(1842年)から翌14年にかけて、猿若1丁目から3丁目(現台東区浅草6丁目あたり)を起立してそこに移されるまで、200年前後この地にありました。
近年、日本橋人形町3丁目において発掘調査が行われ、茶屋や芝居に関する遺物も出土しています。
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2023年2月21日「ジュサブロー館、かつて人形町にありました ~ ジュサブロー館 / 堺町・葺屋町芝居町跡 ~」
ー 江戸文化の伝統美 歌舞伎源流の地 ー
(説明板設置)日本橋人形町3-6-7先
江戸時代、この辺りは芝居小屋やこれらを取り巻く茶屋などが多数集まる「芝居町」として大変なにぎわいをみせた。
芝居小屋のなかには、江戸三座と呼ばれた官許の芝居のうち、歌舞伎を興行した中村座と市村座があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数あった。
これらの芝居小屋は天保の改革で浅草へと移転するまで200年ほどこの地にあった。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
弁慶像
日本橋人形町2-6-13(浜町緑道公園内)
今を遡ること350年前(※1)、現在の人形町あたりに葺屋町と堺町という街があった。
当時この街では、江戸三座といわれていた芝居小屋のうちの市村座と中村座の二座が歌舞伎を上演しており芝居街と呼ばれていた。
また、浄瑠璃による操り人形の芝居小屋も数軒あり、歌舞伎と合わせて庶民の人気を集めていたという。
ここで使われていた人形の製作と、修理に当たった人形師達は、この周辺に住み、人形細工と人形の販売をも業(なりわい)としていた。
以上が人形町のいわれとされており、ここ人形町界隈は、今日隆盛をきわめる江戸歌舞伎発祥の地と呼んでも差し仕えないといえる。
この度、緑道の改修に当たって、入口の広場に歌舞伎十八番の内でも人気のある勧進帳の武蔵坊弁慶像を設置するとともに、その背面に関所風の冠木門(※2)を設けて江戸情緒をかもしだし、往時をしのばんとするものである。
※1 看板設置の経過年数を考慮すると、「遡り」は更に50年ほどプラスする必要があります。
※2 「冠木門」は現在撤去されています。
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2020年4月23日「『新参者』と人形町 10年を考察 ① ~ 弁慶像 ~
そして・・・歌舞伎座
ー 日本の伝統芸能 歌舞伎の殿堂 ー
銀座4-12-15
歌舞伎座は、東京日日新聞社(毎日新聞社の前身)の主筆兼社長で、演劇改良運動にも意欲的であった福地源一郎(ふくちげんいちろう:桜痴【おうち】)が中心となり、明治22年(1889年)に開場した。
平成25年(2013年)4月に開場した新しい歌舞伎座は、永年親しまれた第4期歌舞伎座の外観、内観を受け継ぎながら、最新鋭の設備を備え、・・・(後略)
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
「森田座跡」は、中央やや右上です。
「狩野画塾跡」は、森田座跡の右下です。
「佐久間象山塾跡」は、狩野画塾跡の右に位置します。
なお、このシリーズのスタート地点は、左上の赤い星印で示しました。