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映画「祈りの幕が下りる時」
 キーとなる12の橋、ご紹介します ⑤
  ー 5月 一石橋 ー

リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary  sea  です。

 

『映画「祈りの幕が下りる時」 キーとなる12の橋、ご紹介します』シリーズ、今回は第5回、一石橋(いちこくばし・いっこくばし)をご紹介します。

※ 中央区教育委員会、中央区観光協会では「いちこくばし」、東京都教育委員会では「いっこくばし」と呼んでいます。橋自体には「いちこくはし」と記されています。

※ 一石橋は橋の車道部分は通れますが、そのほかの歩道などの部分は現在工事中です。

このシリーズは映画「祈りの幕が下りる時」に登場しました橋、キーとなる12の橋を、月ごとにご紹介してまいります。

それでは・・・

 

一石橋は・・・

一石橋は・・・ 映画「祈りの幕が下りる時」
 キーとなる12の橋、ご紹介します ⑤
  ー 5月 一石橋 ー

外堀と日本橋川の分岐の橋として架橋されました。

外堀通りが通っています。

一石橋は、常盤橋・銭瓶橋・道三橋・呉服橋・日本橋・江戸橋・鍛冶橋と、当の一石橋、全部で8つの橋をここから見ることができるということで、架けられた当初は「八ツ見橋」と呼ばれていました。

yazさんの、こちらの記事もご覧ください。

⇒ 2017年8月10日「一石橋(八ツ見橋)」

 

一石橋の親柱

一石橋の親柱 映画「祈りの幕が下りる時」
 キーとなる12の橋、ご紹介します ⑤
  ー 5月 一石橋 ー

(脇の歩道は現在工事中です。)

 

 映画「祈りの幕が下りる時」
 キーとなる12の橋、ご紹介します ⑤
  ー 5月 一石橋 ー

所在地 八重洲1丁目11番地先

皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。

当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。

木橋としては最後となった明治6年(1873年)の一石橋は長さ14間、幅3間の橋でした。

大正11年(1923年)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱4基をすえた白亜の橋となったのです。

関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。

平成9年には大正11年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱1基は残され、当時の姿をしのばせています。

平成14年に中央区民文化財に登録されました。

  平成15年3月   中央区教育委員会

 

 映画「祈りの幕が下りる時」
 キーとなる12の橋、ご紹介します ⑤
  ー 5月 一石橋 ー

(画像は中央区観光協会ホームページより)

一石橋の親柱

ー 関東大震災でも壊れなかった頑丈な橋 ー

江戸時代初期に木造橋として架橋された一石橋は、外堀と日本橋川の分岐する場所に架けられていた。

橋名の由来には、「江戸砂子(えどすなご)」の中に、橋の北に金座御用の後藤氏の屋敷があり、南に御用呉服商の後藤氏の屋敷があったため、後藤(五斗)を2つ合わせて俗に「一石橋」と呼ばれたとある。

しかしこれには異説もあり、「十方庵遊歴雑記(じっぽうあんゆうれきざっき)」には、江戸初期、使用禁止となった永楽銭一貫文(えいらくせんいっかんもん)に付き、米一石と取りかえた場所がこの橋であったことに由来するとしている。

大正11年(1922年)には鉄筋コンクリート造のアーチ橋へと架け替えられた。外壁に花崗岩(かこうがん)を使用した立派な橋で、親柱は4本・袖柱(そでばしら)は8本あり、橋の上には市電が通っていた。

関東大震災でも壊れずに長く利用されたが、平成9年(1997年)に大改修が行われ、大正11年の橋は親柱1本だけを残して撤去された。

~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~

 

一石橋迷子しらせ石標

一石橋迷子しらせ石標 映画「祈りの幕が下りる時」
 キーとなる12の橋、ご紹介します ⑤
  ー 5月 一石橋 ー
 映画「祈りの幕が下りる時」
 キーとなる12の橋、ご紹介します ⑤
  ー 5月 一石橋 ー

東京都指定有形文化財(歴史資料)

所在地 中央区八重洲1-11

指定  大正13年2月5日

江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。

当時は迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていた。

そこで安政4年(1857年)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。

日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。

碑文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年年二月 御願済建之 西河岸町」。

両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。

通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を書いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。

いわば庶民の告知板である。

このほか湯島天神境内の「月下 人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同様のものがあった。

しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。

総高175,7cm(棹石163cm、台石12,7cm、棹石正面幅36cm、同奥行26cm、台石正面幅70cm、同奥行68,5cm。

作者などは不詳である。

  平成23年3月   東京都教育委員会

 

一石橋迷子しらせ石標

ー 迷子探しの情報を集める掲示板として活用 ー

三越日本橋本店の裏手、外堀の水が日本橋川に合流する場所に架かるのが一石橋。

この橋のたもとに残る石標は、日本橋西河岸町(にしがしちょう)の町人たちが資金を出し合い、安政4年(1857年)に建てたもの。

江戸時代に迷子を出すと探すのは難しく、親子が一生離れてしまうことも少なくなかった。

そこで情報を集める掲示板のようなものが必要とされた。

石標の正面には、「まよひ子のしるべ」と記されている。

迷子が出た場合は、年頃・面体(めんてい)・格好・履物・衣類などの特徴を記した紙を「たづぬる方」と刻まれた左の側面に貼り、迷子の所在に関する情報を書いた紙は、「志(し)らする方」と刻まれた右の側面に貼るのが通例だった。

~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~

 

 映画「祈りの幕が下りる時」
 キーとなる12の橋、ご紹介します ⑤
  ー 5月 一石橋 ー

一石橋のたもとは桜の時期も圧巻でした。

 

 映画「祈りの幕が下りる時」
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  ー 5月 一石橋 ー

一石橋

一石橋 映画「祈りの幕が下りる時」
 キーとなる12の橋、ご紹介します ⑤
  ー 5月 一石橋 ー

八重洲1丁目 ー 日本橋本石町1丁目

一石橋は赤丸の橋です。

この日本橋川の上流には常盤橋、下流には西河岸橋があります。